第七章 孤立した街

「これは、黒死病が流行する兆しでしょうか」
 硬い表情でリンネは口を開く。イーヴは判断しかねるといった様子で首を振るけれども、ほんとうに黒死病が流行してしまったら。それを考えるとリンネはこわくて仕方がなかった。
 知識として黒死病の存在は知っている。処方する薬も、診察をするときの作法も知っている。けれども、実際に黒死病が猛威が振るったとき、戦い抜くことができるのか、生き抜くことができるのか、全くわからないのだ。
「もう十年以上前になるか」
 イーヴが口を開く。
「他の街が黒死病にやられた。その時に沢山の死者が出たのだけれども、その惨状を乗り越えたいまでさえ、黒死病と闘う術は確立されていない。
けれどもあいつらはすぐに蔓延する。覚悟しなくてはならない」
 重々しいその言葉に、リンネはすぐに覚悟を決めることなどできなかった。

 翌日、集合住宅の片隅で死を迎えた男性と似たような症状の患者を診ることになった。あらかじめ黒死病の薬を調合して患者の元へと行く。首の付け根の腫れが痛々しいその患者に、ゆっくりと液薬を飲ませる。正直言って、リンネはこの薬が黒死病を治せるとは思っていなかった。ほんとうにこの薬が黒死病を治せるなら、昔から伝えられているこの薬が効くというのなら、黒死病の流行であんなにも死者を出すことはなかったのだ。
 そしてやはり、この患者も間を置かずに息絶えた。

 その日の晩、この街の医者達で集まることになった。イーヴ以外の医者も、黒死病と思わしき患者を診ていたからだ。
 情報を交換して、今後どの様にするかの相談をする。そして若いひとりの医者が言った。
「都に手紙を送って、どこかで新しい治療法が見つかっていないか訊こう。
そういう情報はすべて都に集まるから」
 その案に、他の医者は難しい顔をする。都に新しい治療法がある可能性には賭けたい。けれども、この街で黒死病が流行りはじめていると言うことが他に知られたら、この街自体を閉鎖される可能性が大きいのだ。
 けれども、この街を閉鎖されても。開放されたまま皆が死に絶えるよりは、早めに助けを求めた方が良いのかも知れない。
 一番年上の医者が手を固く握って言う。
「都に手紙を送ろう」
 きっと彼は、街が閉鎖されることについて責任を負うつもりなのだろう。これが覚悟をすると言うことなのかと、リンネはその気迫に気圧された。

 医者一同の連名で都の医者に手紙を送り、返事を待っている間にも患者の数は増えていく。はじめの内は一日にひとりかふたり見れば間に合っていたものが、日を追うごとに一日に三人、四人と増えていった。
 これはもう確実に黒死病が流行りはじめている。そう判断した医者達は、自分が感染しないように防護服を着て患者の往診をするようになった。その防護服とは、嘴の着いたマスクに手袋、分厚いマントだ。マスクの嘴の部分には、清々しい香りの薬草をたっぷりと詰め込み、穢れた空気を直接吸わないで済むようにしている。
 異様な姿の医者達。彼らを見た街の人々は、さすがによからぬ事が起こっていると察したようで、中には旅行を装ってこの街を出るものもいた。それは勘が鋭く、実に幸運な人間だ。医者達もリンネも、そんな噂を耳にする度そう思った。
 そうして、街から返事の手紙が来た。届いた手紙は二通。医者達宛ての『新しい治療法は見つかっていない』という報せと、街の監督の元に届いた、『黒死病流行のため街を閉鎖する』という知らせだった。
 その手紙は、多くの兵隊を伴ってやって来た。不正を見逃さず、この街を完璧に閉鎖するためだろう。兵士達は街の障壁の向こう側、出入りのための門の近くにテントを張って、街の人々の出入りを監視しはじめた。
 そんな日々が始まって数日、街の住民はふたつに割れた。あくまでも先祖代々住んでいるこの街と運命を共にしようと言う人と、なにがなんでもこの街を出ようとする人々。そして、街を出ようとする人々は医者の元に詰め寄るのだ。
「この街を出るために、黒死病じゃないっていう証明書を書いてくれ!」
 家まで来てそう詰め寄ってきた男性に、イーヴは毅然とした態度で答える。
「そんな証明書は存在しちゃあいないよ。
それに、あなたが黒死病にかかっていないという証拠は無いし、仮に証明できても、この街からは誰も出られないんだ」
「金か? 金ならいくらでも出す!」
「お金の問題でも、ないんだよ」
 患者の往診から帰ってくると、毎日この様子だ。頼まれごとを断るのが苦手なリンネは、絶対にこういう輩を相手にしないように、イーヴに言われている。もし突然相手をしなくてはいけなくなったら、すぐにイーヴの元に連れてくるようにと、指示されたのだ。
 存在しない証明書を求めてくる人々の相手だけでなく、毎日増え続ける患者の往診もしなくてはいけない。新しい治療法が都に無いと言われたいま、自分たちは旧来の方法で対処をしながら、何とかやっていかなくてはならないのだ。
 新しい治療法を探す余裕はあるだろうか。そこまで強い心を持った医者はいるだろうか。リンネはイーヴに言われるままに黒死病の薬を調合しながら考える。
 こういう時、思い浮かぶのはかつて師事していた先生のことばかりだ。あの人なら、あの人なら全ての人の病を癒やすなにかを見つけ出すことが出来る気がしてならないのだ。
 けれども、それは一体どんなものなのか、リンネにはわからなかった。

 

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