第八章 立ち向かうために

 調剤室に籠もり、黒死病の薬を作っているリンネのところにイーヴがやって来て溜息をつく。
「全く、黒死病でない証明書があれば街から出られるだなんていう話はどこから出たんだか」
「そうですね。そういうデマは非常に困ります」
 患者の往診をしながらありもしない証明書を求める人々をあしらうイーヴの苦労は大変なものだろう。なにか手伝えるとこがあればとは思うけれども、リンネにできる事は患者に処方する薬を作ることと鼠を焼くことだけだ。もっとも、近頃は鼠に直接触れずに運ぶことが出来ればいいと言うことに思い至り、街の人に協力を仰いでトングを使って、集めるのを手伝ってもらっている。
 さすがに、街に溢れんばかりに鼠が転がっていると気味が悪いのだろう。はじめはリンネのことを訝しげに見ていた人々も、鼠を処理できるならと積極的に協力してくれている。それでも鼠の死骸は日々増え続けている。それに伴って、黒死病の患者も増え続けていた。
 そう、患者の数は増え続けているのに、街の人々は次第に落ち着いていった。街角の酒場でおしゃべりをしながら飲み食いをしたり、夜になるとオペラの公演へ行く人も以前よりだいぶ増えたらしい。それは、リンネが鼠を焼く作業をしているときに街の人から聞いた噂だ。
 ある日のこと、リンネは苦々しい表情のイーヴにこう言われた。
「リンネ君、鼠の処理は大変だと思うけれども、君も往診をしてくれないか」
 こうなることは予想はしていた。予想していたとは言え、医者ではなく薬師の自分が往診に出て良いものかどうかの判断を自分ではできなかったので、いずれイーヴをはじめ医者達に判断を仰ごうと思っていたのだ。だから、イーヴの言葉に驚きはなかった。
「わかりました。往診は今日からでしょうか。それとも明日から?」
「明日からでいい。鼠の駆除をしている人達に連絡しないといけないだろうし、できれば今日のうちにたっぷり薬を作って欲しい」
「はい。ではそのようにします」
 やりとりをしてイーヴがまた往診へと向かったあと、リンネは調合していた薬の仕上げをしてから、エプロンを外し調剤室を出る。それから、鼠駆除を手伝ってくれている青年達のリーダーの元へと向かった。

「明日からリンネも病人を診るのか。
わかった。鼠は俺達に任せてくれ」
 鼠駆除を手伝ってくれている青年達のリーダーであるパスカルは、リンネの手をしっかりと握ってそう答える。大柄な身体付きからも想像できる力強く握られた手からは、信頼が感じられた。
「駆除の仕方は、パスカルももうわかっていると思う。だからおねがい。頼んだよ」
「ああ、大丈夫だ。俺達は上手くやる。
だからリンネも上手くやれよ」
 短いやりとりをして、リンネはまた薬を作るために家へと戻る。その道すがらで、着飾った人々が街を歩いているのを見掛けた。リンネは思う。あの人達はオペラを見に行くのだ。いつかイーヴが言っていた、暇ができたら一緒にオペラを見に行こうという言葉。あの言葉を思い出すと、いまの現状はあまりにも息苦しかった。

 その翌日から、リンネも患者の往診に加わった。ひとりでの往診は初めてだけれども、それでもこなさなくてはいけない。初めてだからと泣き言をいっていられる状況ではないのだ。
 嘴の付いたマスクに薬草を詰めて顔に被る。その上からフード付きのマントをすっぽりと被り、革手袋を填める。この姿になるのはもう何回目だろう。いままでは付き添いでこの姿をしていたけれども、今日からはひとりで、疫病の象徴のような姿で患者の元へ行かなくてはならない。薬が沢山入った籠を手に持って、リンネは家を出た。
 街中を歩きながら人々の様子を窺う。道行く人とすれ違うと、すぐによそよそしく顔を背けられ、距離を取られる。まるで自分とは無関係だと無理矢理思い込もうとしているかのようだ。
 それも仕方がない。死に到る病が街を覆っていて、治療する側とは言え自分はその象徴の姿をしているのだ。ほんとうに、関係ないといってそれで済んで、何事もなければそれ以上のことはないとリンネは思っている。
 はじめてひとりで往診した患者。その患者もいままでの患者と同じように、薬の効能も虚しく息絶えていった。

 その日の往診が終わり真夜中、家で遅い食事をしているときに、イーヴがリンネに訊ねた。
「なぁ、黒死病を防ぐ方法はないのか」
 もしかしたらそれは独り言だったのかも知れない。そうだとしても、リンネも何度も反芻したことを口にせずにはいられなかった。
「過去に黒死病が流行したときのことを調べたのですが、今していること以上のことはなにも書かれていません。
もし方法があるのだとしたら、自分たちで探すしかないかと」
 イーヴが大きく溜息をつく。なんとか黒死病を防ぐ方法を探したいと思っているのだろう。けれども、この街の医者の人数は少ない。往診で精一杯で探している余裕など無いのだ。
 ふと、リンネは以前師事していた先生のことを思い出す。あの先生がいれば、機転が利いて心が強いあの先生がいれば、なにか手がかりを掴めたかも知れない。手紙を書いて相談したいけれども、あの先生はもう自分に触れてはいけないと言っていた。
 魔女裁判にかけられた先生に手紙を出すことは、リンネだけでなく他の人にも災いがあるかも知れないのだ。

 

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