第四章 なんだか見覚えが……

 この日悠希は、神保町へと来ていた。担当編集者と何回かに渡り調節したプロットをようやく草稿としてまとめられたので、それを出版社に持っていくためにやって来たのだ。
 悠希がお世話になっている出版社は、『紙の守出版』という、創立当初は神道に関する本を多く出版していた会社だ。いまでもそういった神道系の本を出版してはいるけれども、ここ近年、小説や漫画などの企画もやっている。
 その紙の守出版は、雑居ビルの一角にある。悠希はビルのエレベーターで編集部へと向かう道順自体は慣れてきたけれども、やはりここに来るときは緊張してしまう。
 インターホンで中と連絡を取り、所々塗装の剥げた鉄の扉を開く。いつも不思議に思うのだけれども、閉め切られた室内なのにもかかわらず、編集部内はいつも清々しい空気で満たされているように感じる。
「新橋先生、どうもこんにちは」
 そう声を掛けてきたのは、髪の毛を低い位置でまとめている小柄な女性。服装もシンプルで、派手さはないけれども印象の良い人だ。
「美言さん、こんにちは。原稿のデータを持ってきました」
「そうですか、ではこちらへ」
 美言と呼ばれた女性が、悠希を応接間へと案内しようとする。悠希も緊張しながらその後を付いて行くと、ふと、美言が立ち止まって編集部の奥に立っているこれまた小柄な女性を近くへと呼んで悠希に紹介する。
「そういえば、新橋先生にはご紹介しておかないとと思っていたんです。
こちら、前作の校正を担当していただいた、藤代千代子さんです」
「あ、は、初めまして」
 美言に突然紹介された千代子という女性は、茶色い髪をふた結いにしているからか小柄なせいなのか、成人していると言われることに少し違和感がある。けれども、この人が自分の作品をより良くする手伝いをしてくれたのだと知った悠希は、にっこりと笑って挨拶を返す。
「初めまして、先日お世話になった新橋悠希です。
前回は丁寧な校正をありがとうございました。おかげさまでとても良い作品になりました」
 こう言ったお礼を言うのは慣れていないので少しぎこちなかったかも知れないと悠希は思ったようだけれども、悠希の言葉を聞いて、千代子がぽろぽろと泣き始めた。
 そんなに疵付くようなことを言ってしまったのか。悠希は慌てて千代子に声を掛ける。
「あの、なにか気に障ったことを言ってしまっていたらすいません……」
 すると千代子は頭を左右に振ってこう言った。
「いえ、あの、普段この仕事をしていて、お叱りを受けることは多いんですけど、お礼を言われたのって初めてで嬉しくて……ご心配おかけして申し訳ないです」
 出版関係の仕事はどこも過酷だというのは聞いていたけれども、そこまで大変な仕事だと言うことを、悠希は知らなかった。そんな大変な仕事をしている千代子に、ますます頭が上がらない気持ちになる。
 涙を拭った千代子が、内ポケットからカードケースを取りだして、名刺を悠希に差し出す。
「あの、改めてのご挨拶になりますけれど、よろしければ名刺をどうぞ」
「あ、ありがとうございます」
 名刺を受け取った悠希は、少しだけ気まずそうな顔をする。こういう時に使える名刺を、まだ作っていないのだ。
「あの、僕もご挨拶したいんですけど、まだ名刺を作っていなくて、その」
 しどろもどろながらに悠希がそう言うと、千代子はにこりと笑って返す。
「そんなに気になさらないでください。
デビューしたての作家さんは結構そう言う事があるので、慣れています」
「そうなんですね」
「そのうち、名刺を作ったときにいただければ嬉しいですけれど」
「そうですね、ではその時に」
 名刺の話はそれでまとまり、ふと、悠希が千代子の顔を見て首を傾げる。それを見てまた不思議そうな顔をする千代子に、悠希が訊ねた。
「あの、どこかで会ったことがある気がするんですけど、どこかでお目にかかりましたか」
 それを聞いて、千代子は気まずそうな顔をして顔をそらしこう答える。
「あの、えっと、気のせいでは?」
「気のせい……ですよね」
 そうは言ってもなかなか納得出来ないでいる悠希に、美言がこう言った。
「ふたりとも行動範囲が近いから、どこかですれ違ったとかじゃないですか?」
「ああ、それはあるかもしれません」
 ようやく納得した様子の悠希は、もう一度千代子に礼をして、美言と一緒に応接間へと向かった。そこで原稿のデータを渡し、今後のスケジュールの相談をするのだ。
 原稿はデータが壊れていないかどうかをまず美言のノートパソコンで確認し、壊れていないということがわかったら、それを一旦横に置いてスケジュールを詰めていく。
 こうやって仕事の話をしていると、自分にも責任あることを任されていると言う実感が湧く。働いていなかったときに比べて自由になる時間は減ったけれども、それに納得出来ないということはなかった。
 ふと、原稿のデータを確認していたノートパソコンを見る。この原稿も千代子が校正してくれるのだろうかと思うと、なんとなく嬉しい気がした。

「ただいまー」
「おう、おかえり」
 仕事を終えて家に帰ると、いつも通りに鎌谷が部屋で迎えてくれた。その事にやはり安心する。
 肩から鞄を下ろして床に置くと、鎌谷がなにやら不審そうな顔をして鞄をふんふんと嗅ぎ始めた。
「鎌谷君、どうしたの?」
 疑問に思った悠希がそう訊ねると、鎌谷が難しい顔をしてこう言った。
「なんか、赤いクラゲの匂いがする」
「えっ」
 鎌谷の言葉を聞いて、悠希は慌てて玄関とトイレを確認しに行く。開けて見てみたところ、どちらにも異常はなさそうだった。
「気のせいじゃないかな」
 そう言って悠希はちゃぶ台の側に座り、鞄の中のものを整理する。そのさなかで、そういえば。と千代子からもらった名刺をちゃぶ台の上に置いた。
 あとで名刺ファイルにしまっておかないとと思っていると、鎌谷がその名刺の匂いを嗅いで、驚いたような顔をする。
「えっ、この名刺から赤いクラゲのにおいがすんだけど」
「えっ」
 悠希も驚きを隠せない。今日もらった名刺は、校正の仕事をしている千代子のものだし、今日は赤いクラゲに遭っていない。それとも、千代子があの悪の秘密結社赤いクラゲと関係があるとでも言うのだろうか。
 疑問に思った悠希は、改めて千代子のことを思い出す。丁寧で真面目なひとだった。悪の秘密結社と関係があるとは考えづらい。けれども、あの容姿を思い出すと、どうにも、赤いクラゲの女幹部と似ている気がするのだ。
 以前、女幹部と一緒に飲みに行ったときのことも思い出す。そういえば、赤いクラゲ以外にも会社に勤めていると言っていた気がする。
「まさか、ね……」
 なんとなく妙な感覚は拭えないけれども、千代子はしっかり仕事をしてくれた実績がある。特に危害を加えられるのでなければ信頼出来る相手だろう。自分の中でそう結論づけた悠希は、そろそろ夕食の時間だしと、鎌谷と自分の分の食事を用意しに、キッチンへと入っていった。

 

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