第二章 ワイングラスとチーズ

 首都でのオペラの公演期間も終わり、これからは他の街へと行って公演をする事になる。秋から春にかけては首都で、 春から秋にかけてはその他の地方へ歌手や役者を派遣して公演するというスタイルになっているのだ。首都での公演期間中に、 ウィスタリアとプルミエールやハーモニーオやベルは随分と親しくなった。ウィスタリアには自覚は無いが、 やはり身を挺して人を助けると言う事は、それだけの信頼が寄せられる物なのだろう。 地方巡回の準備をし、 プルミエール達と食事をした後、ウィスタリアは友人の歌手の部屋へと訪れていた。首都を出発する前に、 二人で酒でも飲もうと誘われたのだ。部屋の中にはウィスタリアと、彼を招いた歌手の二人。その歌手は、 若草色の柔らかいはねっ毛をふわふわと揺らし、小柄な体でワインとチーズを用意して居る。その様を、 ウィスタリアはそわそわしながら眺めていた。

「ドラゴミール、そのワインとチーズは買ってきたの?」

 そう訊ねると、ドラゴミールと呼ばれた歌手が嬉しそうに答える。

「お客さんからの差し入れだよ。ワインはなんか良いやつ貰っちゃって。

チーズは一緒に食べるのになんとなくでっかいの買っちゃったんだ」

「シルヴィオは飲みに誘わなくてよかったのか?」

「あー、誘ったんだけど、職人達でなんか打ち合わせが有るとかで今日は来れないって」

 ウィスタリアが訊ねたシルヴィオというのは、ドラゴミールの友人で、舞台装置職人だ。

 そういえば。とウィスタリアは思い出す。先日プルミエールが宙吊りにされ、落ちた後に、 真っ青な顔をしてウィスタリアとプルミエールに駆け寄ってきたのはシルヴィオだった。他の職人は、 あの事故をよく有ること、仕方の無いことと片付けていたけれども、安全面を確保出来ていなかったのは自分の手落ちだと、 シルヴィオは言っていた。

 真面目な職人は信頼できるなとしみじみ思っている間にも、ドラゴミールはグラスを二つを用意し、 大きなチーズの塊からつまみにする分だけ切り分けていた。それを見たウィスタリアは、 ワインのコルクに栓抜きをねじ込み、ぽんと開ける。コルクに浸みた香りを聞き、それをドラゴミールに渡すと、 彼もコルクの香りを聞いた。

「ん~、良い匂いだな」

「そうだな。どんな味なんだろう」

 何度もコルクの匂いを聞いているドラゴミールをみて、ウィスタリアも期待が高まる。ワイン瓶を持って、 二つのグラスに薄く黄色がかった液体を注いだ。華やかで甘い葡萄の香りと、少し刺激的なアルコールの香りが広がった。

 ふたりはワイングラスを手に持ち、軽く持ち上げる。

「それじゃあ、地方公演も成功することを願って」

 ドラゴミールがそう言ってグラスを寄せるので、軽くグラス同士を合わせ、 澄んだ音を立てる。口元にグラスを持って来てそっと口を付けると、華やかな香りに反しない、甘い味がした。

「へぇ、これ、甘くて飲みやすいね」

 驚いたようにウィスタリアが言うと、ドラゴミールは当然と言った顔で答える。

「そりゃそうだろうなぁ。これ、貴腐ワインって言ってたし」

「え? そんな高価な物貰ってたのか?」

 貴腐ワインというのは、非常に生産が難しい。しかしながら、 その甘みと香りの良さで国を問わずに人気のある高級品だ。ウィスタリアも、今までに何度か飲んだことはあったけれど、 頂き物とは言え惜しみなく分けてくれるドラゴミールとは、 立場の違いを感じた。ドラゴミールはオペラ一座の中で一番の人気歌手で、 こう言った贈り物を頻繁にいただくのだという。聴く物を魅了する透き通ったボーイソプラノ。 その声で奏でる歌は悪意など全く知らないかのように清らかで、それがそのままドラゴミールの人柄となっていた。

 いつのことだっただろうか、こうやって親しく話すようになったきっかけは、 ドラゴミールの方からウィスタリアに話しかけてきたことだった。きっと、 ウィスタリアの低くよく通る声が自分には無い物だとわかって居たのだろう。それでも何の負い目も無く、素直に、 ウィスタリアの歌が好きだと言ってきた。その時の嬉しさは、今でも良く覚えている。

 立場の違いは有るかも知れないけれど。そう思いながらウィスタリアはドラゴミールと一緒にグラスを傾け、 芳醇なチーズを囓る。これは明確に、幸福な時間だった。

 

 翌朝、気がつくとウィスタリアはドラゴミールの部屋のベッドで目が覚めた。どうやら、飲み過ぎて酔って、 そのままここで眠ってしまったようだった。ぼんやりと目を擦りながら部屋の中を見渡すと、 昨晩ワインを飲んでいたテーブルの側で、ドラゴミールが険しい顔をしていた。

「あれ? どしたん?」

「ウィスタリア、起きたんだったら飯食いに行こうか」

 何が有ったのかよくわからないままに、食事に行くと返そうとしたが、 どうにも空腹感が全く無い。なのでウィスタリアはこう答えた。

「んー、なんかぜんぜん腹減ってない」

「だろうな。知ってた」

 そう言ってドラゴミールは、テーブルの上にあった紙をウィスタリアに見せて言う。

「昨夜、ここにでっかいチーズ有ったよな?」

「うん。切って食べたけど、なんで無くなってるの?」

 ウィスタリアの記憶に残っている限りでは、ドラゴミールは全部切り分けたというわけでは無かったので、 かなりの量のチーズが残っているはずだった。けれども、そのチーズはどこにも見当たらない。

 ドラゴミールがにっこりと笑ってウィスタリアに問う。

「お前さ、夜中お腹空いたりしなかった?」

「ん~、そう言えば、お腹が空いて何度か起きて、なんか食べたような気がする……」

 そこまで言って、ウィスタリアは気づいた。自分が夜中なんとなく食べていたのは、 ドラゴミールが用意した大きなチーズだったのだ。

「あ……ごめん。それ多分、全部おれが食べ……あれ~?」

「このチーズ、何ポンド有ったか知ってる?」

「知らない」

「四ポンド」

「あれ~?」

 四ポンドというと、 林檎何個分だろうか。そんなに大量のチーズが自分のお腹に収まっていることがウィスタリアには不思議だったが、 実際に目の前のチーズは消えているし、空腹感は全く無い。そして自分はものすごくチーズが好きだという自覚がある。

 なんとなく、段々と申し訳ない気持ちが湧き上がってきた。

「ごめん。ほんとごめん。今度代わりのチーズ買ってくる……」

 ほんとうに申し訳なさそうにそう言うウィスタリアを見て、 ドラゴミールはやれやれと言った顔をしてから、にっと笑う。

「まぁ、今度行く街で美味しいチーズ見繕って買ってきてくれよ。お前が選ぶチーズなら美味しいだろうしさ」

「わかった。ほんとごめんな~」

 それでようやく二人で笑い合って、揃って食堂へと向かった。朝食を食べたら、 地方都市へ向かう旅のはじまりだ。今回向かう街には、ウィスタリアを気に入ってくれていて、 歌の依頼をしてくれる人が何人も居る。その人達に会うのはウィスタリアにとっても楽しみだった。

 

†next?†