第三章 望まれること

 首都を出発してから数日かけ、オペラの一座は目的地に着いた。その街は海の近くにあって、 船を使った交易が盛んな場所だった。

 この街に派遣された人員は沢山居るけれども、今回の一団にはウィスタリア以外にドラゴミールと、 踊り子としてプルミエール、ハーモニーオ、ベルも含まれていた。この街に来るまでの間、 ウィスタリアは頻繁にプルミエール達と言葉を交わした。女性から何度も話しかけられるという経験は今までに何度もあった。 そしてその度に少し警戒していたのだけれども、あの三人は特に裏になにかを隠している様子もなく、 善意を向けて話しかけてきているのがなんとなく感じられたので、安心して接することが出来た。

 普通ならばそんなに女性を囲ってと、周りから揶揄される物なのだろうが、かねてより女性に対しては遠慮がちで、 奥手で有る事が周りに知られているせいか、ウィスタリアのことをとやかく言う者は居なかった。

 

 街に着いたその日の夕方、ウィスタリアはドラゴミールと夕食を食べようと宿舎の部屋に向かったが、 中には誰も居なかった。一体何故、そう思ったけれどもすぐに思い当たる節があった。この街には、 ドラゴミールと仲の良い友人が居たはず。きっと挨拶に行っているのだろうとそう思い至り、 少しだけ寂しい気持ちを抱えて部屋の前を後にした。

 宿舎の食堂にひとりで向かうと、既にテーブルを囲んでいるプルミエール達に声を掛けられた。

「ウィスタリア、良かったら一緒に食事しない?」

 初めて会った時に比べてだいぶ打ち解けた様子のプルミエールに声を掛けられ、 ウィスタリアは三人が待っているテーブルに向かう。円形のテーブルには倚子が三脚置かれているけれども、 三人に少し詰めて貰えば、もう一脚倚子を置けそうだった。

「おれも一緒に良いの? それじゃあお邪魔して」

 座ったのは、プルミエールの正面で、右手にはハーモニーオが、左手にはベルが座って居る。

「みんな、もう注文はしたよね?」

 ウィスタリアがそう訊ねると、ベルが右手の人差し指に髪を巻きながら、呆れたように答える。

「注文したいんだけどさー、ハーモニーオがまだなに注文するか決めかねてるんだよね」

「優柔不断で悪かったね」

 拗ねた顔を見せながら、メニューを目の前に置き、 ハーモニーオは文字を人差し指でなぞっている。これではウィスタリアがメニューを見られないのだが、 特に困ったことは無かった。

「あ、ウィスタリアもメニュー見るよね?」

 ハーモニーオが慌ててそう言うと、ウィスタリアは、にこりと笑う。

「大丈夫、おれ、入り口の看板でどれ頼むか決めたから。だからハーモニーオがメニュー見てて良いよ」

「心遣い痛み入る」

 メニュー表をにらめっこしているハーモニーオから視線を外し、今度はプルミエールとベルに声を掛けた。

「他の二人はなににするか決まった?」

 ベルは当然と言った様子で答える。

「決まってるー」

 プルミエールも、ハーモニーオを見て申し訳なさそうな顔をしながら答える。

「私も決まってるんだけど、目の前でこんなに悩まれると、ちょっと心が揺らぐかな?」

「なんかごめん。すまぬ……」

 いまだ決めかねているハーモニーオはそう言う物の、 悩んでいるのには変わりがないようで。どうせ今晩はたっぷりと時間がある。それならば、 納得がいくまで悩んでいても良いのでは無いかと、お腹を鳴らしながらウィスタリアは思った。

 

 その翌日、この日から舞台の練習が始まるのだが、 ウィスタリアの手元には一通の手紙があった。それはこの街に住む貴族からの物で、 首都を出立するだいぶ前に受け取っていた物だ。内容は、この街に来たら是非館に来て、 歌を披露して貰いたいと言う物だった。中には、なるべく早く。という一文もあったので、 出来れば昨日中に伺った方が良かったのかも知れないが、さすがに到着当日は荷物の整理があるし、 何より疲労している。疲れた状態ではなく、万全の状態で歌を披露した方が良いだろうと判断したのだ。

 練習の責任者に声を掛け、練習を抜け出す。責任者も貴族からの要望ならば仕方ないと、ウィスタリアを送り出した。

 身なりを整え、貴族の屋敷へと向かう。こういった事はどこの街でもあることなのだけれども、慣れているかと言われると、 そうでは無い。だけれども、今回声を掛けてきた貴族は懇意にしてくれているので、気持ちは少し軽かった。

 

 館に着き中へと案内されると、その館は壮麗な作りで、豪奢な壁紙にシャンデリア、色鮮やかな絵画が飾られ、 けれども上品にまとまった空間になっている。

 ウィスタリアが通されたのは応接間。そこに二人の人物が待っていた。一人は、プラチナブロンドを緩く結わえ、 肩に垂らしている、この館の主である男性。その整った顔つきからは自信に満ちている様子が受け取れる。

もう一人は柑橘を思わせる髪を結い上げた、意志の強そうな表情をした若い女性。館の主の妻だ。

「ルクス様、ダリア様、お久しぶりでございます」

 恭しく礼をしてそう言うと、ルクスと呼ばれた男性が朗らかに返す。

「やぁ、君のことを待っていたよ。君たちは昨日ここに到着したようだったけれども、 どうして昨日来てくれなかったんだい?」

 余程ウィスタリアのことを待ちわびていたのだろう、そんな疑問を口にするルクスに、ウィスタリアは言う。

「昨日は到着したばかりで疲れていたのです。折角お招き戴いて歌を披露するのでしたら、 疲れを取って万全の状態でお聴かせしたいと思いまして」

 それを聞いて、ダリアと呼ばれた女性がにこりと笑う。

「あら、そうでしたのね。出来ればもう少しゆっくりしてからいらして戴いても良かったのですけれど、 ルクス様が急かしてしまったようですね。お気遣いありがとうございます」

 そう言ってちらりとルクスを見たダリアの目が一瞬笑っていないように感じたが、 きっと無理を言ったことを後で諫めようと思って居るのかも知れない。それに気づいているのか居ないのか、 ルクスは待ちきれないと言った様子でウィスタリアを急かす。

「それじゃあ、早速歌を聴かせてくれるかな?

君のうつくしい声を聴くのを、どれほど待ちわびたか」

「はい、かしこまりました」

 こんなにも自分の歌を望んでくれる人が居ると言う事が、ウィスタリアには嬉しく、 しあわせなことだった。こうして歌を聴いて喜んでくれている人が居るのなら、幼い頃音楽院に売られたことも、 悪いことではないと思えるのだ。感謝の気持ちを乗せて、歌声を披露する。その低く染み渡る声は、 まさに豪奢な屋敷に相応しい物だった。

 

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