第一章 聖に入る道

 街の教会の聖堂で、ひとり泣きながら祈りをあげる。
 今まで所属していた音楽院に辞表を出し、これから生まれ故郷に帰るのか、それともまた誰も自分を知ることのないどこかへ行くのか、悩んでいた。
 自分の意思とは関係なく罪を犯してしまった彼は、まず神様に懺悔しなくてはいけないと、街を出る前にこの教会を訪れたのだ。
 彼の側では、老齢の神父様が静かに座っている。信徒がこの様に祈りをあげに来るのには慣れているのか、それとも自ら語らない限りは深く踏み入ってはいけないと心得ているのか、ロザリオを手繰って涙を零す彼に話しかけることはしていない。
 彼が祈りを終えた後も、ふたりは立ち上がらない。聖堂の中にただ静寂が漂う。どれだけそうしていただろう。涙を拭った彼がロザリオを布にくるんでポケットにしまい、神父様に話し掛けた。
「あの、告解をしたいんですけど、いいですか?」
 ようやくそれを告げられたと言った様子の彼に、神父様は優しく返す。
「もちろん構いませんよ。
それでは、そちらの告解室へどうぞ」
 たよりなく立ち上がった彼は、神父様に促されるままに、聖堂の片隅にある小さな部屋に入る。神父様も続いて、彼が入ったのとは違う扉から小部屋に入った。
 その中は分厚いカーテンで仕切られていて、彼から神父様の姿を見ることは出来ないし、神父様から彼の姿を見ることも出来ないだろう。
 小さな椅子に座って、大きな身体を縮こまらせて、彼はまた押し黙る。気持ちを落ち着かせるためか、両手の指を絡ませて視線を落としている。
 しばらくそうしていて、彼はようやく決心が付いたように口を開いた。自分が犯した罪を震える声で吐き出し、その時のことを思い出しているのか、また涙を零した。
 ようやく話せた彼の告解を聴いた神父様は、静かな声で彼に言う。
「もしあなたさえ納得できるのでしたら、こことはまた別の、他の街の修道院に入ることをお勧めします」
 彼は返事を返さない。
「あくまでも、これからのあなたの選択肢としての提案です。
もし必要でしたら、私の知り合いがいる修道院への紹介状もご用意いたしますよ」
 自分の身に起きたことを考えれば、もしかしたらだけれども、故郷に帰るよりも俗世を捨てて修道院に入った方が安全かも知れない。そう思った彼は、か細い声でこう答える。
「お願いできますか……?」
「はい、ここでしばらくお待ちいただけるのでしたら、ただいま用意して参ります」
 その言葉を残して、神父様は告解室を出る。彼も、他に告解室を使う人がいるかも知れないと考えて、聖堂で待っていようと倚子から立ち上がった。

 神父様から手紙を受け取った彼は、陽が高いうちにその街を出た。着替えと貯金と食料と、音楽院にいた頃に渡された何枚もの楽譜を鞄に詰めて街道を歩いた。
 しばらく歩いている内に、分かれ道に辿り着いた。左は故郷への道、右は神父様に紹介された修道院への道だ。
 そこまで来て彼はまた悩む。本当に修道院に入るのか。故郷にいる両親達家族にもう会えなくなっても良いのか。そう考えて、ふと両親が恋しくなった。けれども、先程告解した内容を思い出して、故郷に帰ったら音楽院にある記録から家を突き止められて、またあんな目に遭うかも知れない。
 また涙が零れれてくる。彼は涙を拭って右の道を選んだ。

 見慣れない風景が続く道を進み、森が見えてきた。街道は森を迂回しているけれども、空腹を感じた彼は森に入ればなにか食べ物があるかも知れないと、道を外れて森の中へと入っていく。
 街で買って来た食料はなるべく温存したい。森の中で果物や木の実が採れるなら、それでしのぎたいと思ったのだ。
 けれども、森での採取に慣れていない彼が、そうやすやすと空腹を満たせるほど食料を見つけられるはずもなかった。なんとか柘榴の実をひとつだけ見つけてそれを食べ、もう暗くなり始めたのでこれ以上動くのはよくないと、大きな樹の根元で眠りはじめた。

 当然、目を覚ますと森の中にいるはずだった。けれども、彼が次に目を覚ましたときには見知らぬ家の中だった。驚いて起き上がり周りを見渡す。人攫いに連れて行かれたにしてはベッドの上に寝かされているという丁寧な扱いだし、持っていた荷物もベッドのすぐ脇に置かれていた。
「やぁ、目が覚めたかい?」
 突然掛けられた声に驚いてそちらの方を向くと、そこには部屋のドアを開いてにこにこしている小柄な男性が立っていた。
 見知らぬ男、というだけで彼は思わず身を震わせる。その様子を見た小柄な男性は、ドアから近づくことなく言葉を続ける。
「お腹が空いただろう?
居間に朝ごはんを用意してあるから、食べにおいで」
 にこやかにそう言って廊下へと消えた男性を見てついていくのがこわいと思いながらも、漂ってくるおいしそうな匂いを嗅いで彼はベッドから降りて靴を履く。それから、廊下を覗き込んで居間があるのであろう扉の前に立っている男性の方へと歩いて行く。
 ひとあし先に居間へと入る男性に続き、恐る恐る中を覗き込むと、朝日が差し込むテーブルの上に、三人分の食事が用意されていた。
 その部屋にいたのは先程の小柄な男性と、どっかりと椅子に座った胡散臭い雰囲気の男性。どちらと比べても彼の方が体格がいいのだけれども、怯えたように身体を縮めておそるおそる中へと入る。
 すると、小柄な男性がすっと椅子を一脚引いたので、反射的にその椅子の所に行き腰をかけた。
 そこではっとした彼に、居間にいた男性ふたりがにっこりと笑って口を開いた。
「見知らぬ人の家に突然いて驚いただろう。
名乗った方が緊張がほぐれるだろうから、僕達の紹介をしようか」
 そう言った背の低い男性が、軽く礼をしてから名乗る。
「僕はこの村で医者のようなことをしているミカエル。君が森の中で冷え切っているのを見つけてきたんだよ」
「冷え切ってた?」
 意外な言葉に彼が驚いた声を上げると、もうひとりの男性がにやっと笑いながら言う。
「ミカエルが慌てて呼びに来たから何かと思ったら、お前さんが木の根元でひんやりしてたのさ。
この時期の朝の森は冷え込むから、朝霧にやられたんだろうなぁ」
「ひえ……」
 修道院に辿り着く前に儚くなるところだったのかと彼が竦み上がると、男性が話を続ける。
「お前さんを運ぶのを手伝ったわけだけども。
まぁ、俺はしがない調香師だからこわがらないでくれや。
気軽にジジって呼んでくれ」
 ミカエルとジジの言葉を聞いて、このふたりに悪意が無いことと善意でここまで連れてきてくれたことはわかったけれども、やはり身体が竦んでしまう。
 そうして何も言えないでいると、ミカエルが目の前のパンとスープを指して言う。
「とりあえずごはんを食べようか。
君の名前は、気が向いたときに聞かせてくれれば良いから」
 その言葉に、彼は頭を下げてから食前の祈りをあげる。ミカエルとジジも同様にした。
 スープをひとくち、ふたくちと食べているうちに段々落ち着いてきたようで、彼がぽつりと口を開いた。
「おれの名前はウィスタリアっていいます。
修道院に向かう途中で、それで……」
 やっと名乗ったウィスタリアの言葉に、ミカエルとジジは頷きながら耳を傾ける。ウィスタリアが知りたいのは、ここは一体どこなのかと言うことと、修道院への道だ。その話をすると、ミカエルがすぐ側にある台所で珈琲の準備をしながらこう提案した。
「君が目的としている修道院は、僕が定期的に行っている街にあるよ。
僕もそろそろその街に行かなくてはいけないから、なんだったら僕が案内しよう」
 それを聞いて、ウィスタリアはぼんやりとミカエルの方を見る。珈琲の入ったカップをミカエルがテーブルの上に置く。芳しい香りでようやく、この人を頼っても良いのだと思えた。
 ミカエルは言葉を続ける。
「でも、街へ行く前にウィスタリアの体調を整えるのが先だね。
少しの間、この家で暖まっていった方が良い」
 やさしげな声に、ウィスタリアは黙って頷く。ふと、涙が零れた。
 ここ数日でどれだけ泣いたのだろう。もうわからなくなってしまったけれど、今度はジジがウィスタリアにいう。
「余程つらい目に遭ったんだなお前さん。
よし、気分を持ち直せるようにあとでちょいと香水を調合してやろうか。
マジョラムを使った落ち着くやつをさ」
 このふたりは初めて会ったはずなのに、なぜここまで良くしてくれるのだろう。不思議に思いながらも、音楽院で中の良かった友人の人懐っこい笑顔を思い出す。このままミカエルについて行けば、彼とももう会うことは無いのだ。
 しばらく涙が止まらなかった

 

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