第二章 閉じた世界で

 ウィスタリアがミカエルの家に運ばれてきて数日。はじめの内は冷えと抱えた悩みのせいもあってか些か顔色が悪かったけれども、暖かい食事と布団でだいぶ回復した。
 それを見計らったように、ミカエルとジジは鞄に荷物を詰め、外出の支度を始めた。彼らにとっては久しぶりの、ウィスタリアにとっては休息を挟んでの街への道のりが始まるのだ。
 必要以上に厳重に家の戸締まりをするミカエルを家の前で待ち、これで良いとなったところで村を出た。まだ陽は高く、ミカエルが言うには街まで二日ほどの道のりだそうだ。
「まぁ、途中で森に迷い込んだりしなければだけれどね」
「その節は申し訳ありませんでした」
 くすりと茶化して言うミカエルに、ウィスタリアも顔を赤くしながらはにかんで返す。その様子を、ジジはにやにやしながら見ている。
 三人で街道を歩き、そうしているとあの教会があった街を出たときの悲壮な気持ちは薄れていくような気分になる。このふたりに見つけてもらえたのは本当に幸運だったとウィスタリアは思うのだ。
 村を出て歩き続け、途中座るのに調度良さそうな大きい石を見つけると、それに腰掛けて一息つき、また歩き出す。目指す街に着くまでに、間にちょうどふたつほど宿場町があるのでそこで宿を取るとミカエルは言っている。
 宿場町という所にこんな少人数で行くのは、ウィスタリアにとって初めての経験だった。今までは音楽院からの派遣で、もっともっと大人数で宿場町を訪れて、宿の手配も音楽院の専用の職員がやっていた。だから、どのように宿での手続きをするのか全く知らないのだ。
 道中そんな話をすると、ジジがいかにも頼もしそうな態度で、自分が宿の手続きをするところを見て覚えればいいと言う。それを聞いて、ウィスタリアは自信なさげな様子だ。
「でも、見ただけで覚えられるかなぁ」
「大丈夫さ。見る機会は少なくとも二回ある」
 その二回で覚えられるかどうかが不安なのだが、それを察したのかミカエルがにこりと笑って口を開く。
「それなら、ウィスタリアが実際にやってみればいい。横から僕が教えてあげるから、その通りにね」
 その提案に、ジジもなるほどと言った顔をする。
「たしかに、見るだけよりもやってみた方が覚えは良いな」
「教えてくれるなら、やってみようかな」
 そう話しているうちにも、風に乗って賑やかなざわめきが聞こえてくる。ひとつめの宿場町はすぐそこだ。

 宿場町で宿の取り方を教えて貰ったりなどしつつ、ウィスタリアは無事に街へ着くことができた。ふたつ目の宿場町で、他の場所へ行くと言うジジと別れてしまったのは名残惜しかったけれども、次はミカエルとも別れる番だ。思わず心が引き締まる。
 この街の貴族の元へ行くと言うミカエルだったけれども、このまま街で迷子になられても困るからと、修道院まで案内してくれた。
 別れ際に、ウィスタリアがミカエルに言う。
「短い間だったけど、ありがとう」
 ミカエルもウィスタリアに言う。
「なんてことはないよ。これも運命だ。
それに」
「それに?」
「君はすっかり、泣かなくなったね」
 その言葉に、ウィスタリアははにかむ。その場から離れるミカエルに手を振り、姿が見えなくなってから、修道院の扉を叩いた。

 修道院に入るにあたり、神父様から持たされた手紙を修道院長に渡し、司教様の許可を得た。持っていた荷物もほとんどが修道院預かりとなり、そのかわりに、修道士見習いとしてこれからここで暮らすことになった。
 修道士の見習い期間は三年間。その間に、本当に修道士になるのか、それともやはり俗世に戻るのか見極めるのだ。
 修道院に入って、ウィスタリアは不安を感じた。周りは聖職者だけれども男性ばかりで、それに対して威圧感を感じたのだ。
 けれども、これからはここで生きていく。その決意を固めて、ウィスタリアは自分のために用意された部屋の扉を開けた。

 閉ざされた世界での生活をはじめ、時折息苦しさを感じたりどうしようもない不安に駆られることが何度もあった。けれどもその度に、世話役として何かと面倒を見てくれている先輩修道士が慰めてくれていた。
「ああ、そんなにおびえた顔をして……何があったのですか?」
「あの、うまく言えないんですけど、男の人が沢山いるとこわくて……」
「そうなのですね。でも、ここはそういうところですので慣れていただかないと。
でも、今いっとき、慣れるまでは落ち着くのに少し皆から離れるのも悪くはないでしょう」
 見習いとしての勉強が終わった後、先輩修道士はウィスタリアを部屋へと連れて行き、少しここで休むようにと言う。この心遣いがウィスタリアには嬉しかった。
 ふと、先輩修道士がこう訊ねた。
「私も、こわいですか?」
 その問いに、ウィスタリアはぎゅうと手を握りしめて答える。
「ルカはこわくない」
「では、あなたが落ち着くまで一緒にいてもいいですか?」
「あの、はい」
 ウィスタリアがベッドに腰掛けると、先輩修道士のルカは部屋の扉を開けたまま、ウィスタリアの隣に腰掛ける。彼らの間には、人ひとり分の空間があいている。
 こうして皆の中にいるのがこわくなってしまったとき、ルカは静かに寄り添ってくれていた。朝の勤めや夕べの祈りの時に皆から離れていてもだ。
 ウィスタリアが祈りの場に出られないとき、ひとりだけ部屋に籠もっていて後で戒められるよりは、ふたりで戒められる方がまだ気が楽だろうと言うのがルカの言い分だ。
 もっとも、最近はルカが司教様や司祭様に事情や状況を説明してくれたおかげで、どちらも戒められることはないのだけれども。
 聖堂の鐘が鳴る。夕べの祈りの時間だ。それでもふたりはそこにぢっとして、ただ時が過ぎるのを待った。

 

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