軍属の両親を持っていた為に、幼少の頃から小久保美夏は、軍の養成学校で学び、優秀な成績を収めていた事により、 卒業と同時に陸軍の幹部となった。
平常時は、午前中だけ軍の仕事をし、午後は家に帰って恋人のカナメと一緒に時間を過ごす。そんな日々だった。
その日も、午前中の仕事が終わり、家に帰ってきた所で、着替える前に一息つこうと、 冷蔵庫に入れて置いたお茶を飲んでいた所。
黒いスーツに身を包み、軽い天然パーマの赤毛を櫛で結い上げ、如何にもこの堅苦しいこの格好。
早くこの姿から着替えてカナメの顔を見に行こう。
そう思って、空になったコップを台所に置き、狭いけれども整然と整理された、木目調の本棚が並ぶ部屋に行き、 ネクタイに手を掛ける。
すると突然、足下が揺れた。
突然の事でバランスを崩した美夏は、思わず壁際にある、畳んだ布団の上に尻餅をついてしまう。
この地震はただ事では無い。そう直感した美夏は、掛け布団を被り、その場にうずくまって、 本当に響いているかどうかもわからない轟音を聞きながら、揺れが収まるのを待つ。
暫くそうしていると、照明が揺れて軋む音だけが聞こえる様になり、そろそろと布団から顔を出す。
そうして目に入ったのは、ベランダに続く大きな窓ガラスに入った、一筋の罅だった。
美夏のPHSが、鳴り始める。先程の地震でもし何処かに被害が出ていたらすぐに救援をしに行く手続きが出来る様に、 軍の方に戻ってこいと言うメールだ。
了解です。それだけ返事を返し、美夏はまず、カナメの部屋へと向かった。
階段を降り、廊下を歩き、突き当たりの部屋のチャイムを押すと、不安そうに、 着ているワンピースのスカートを握っているカナメが出てきた。
見た感じ怪我は無さそうだが、もしかしたら服の下に痣を作っているかもしれない。
それを心配し、美夏はこう訊ねた。
「カナメ、怪我は無い?」
すると、カナメも美夏の身を案じていたらしく、こう返してきた。
「うん、僕は無事だけど、美夏は?」
「私は無事。ただ、軍の方から緊急メールが届いてね、行かなきゃいけないの」
その言葉を聞いて、カナメは少し潤んだ目を翳らせる。きっと、美夏に危険な所へは行って欲しくないのだろう。
けれども、美夏が軍の仕事を誇りにしているのを、日本国民を守れる事を誇りに思っているのを、 カナメは知っている筈だ。
わかっているが故に心配するカナメの頭をそっと撫で、頬に手を添えて、美夏は微笑んで言う。
「大丈夫。無事に帰ってくるから」
「うん……気をつけてね」
美夏の言葉に、心配そうな顔をしたまま見送ったら、きっと不安がると思ったのだろう、 少し微笑むカナメの顔を見て、軽く唇を重ね合わせる。
それから美夏はまずカナメがするべき事の指示を出した。
バスタブに溜められるだけ水を溜める事と、炊けるだけ米を炊いておく事、それから、他の食料の確認をする事。
緊張した面持ちのカナメに指示を出した美夏は、これから同じ事を、 カナメと同じ階に住んでいる友人の悠希に伝えに行くと言って、カナメの元から離れた。
悠希にやるべき事を伝えた美夏の元に、再びメールが入る。
軍の方に、震源地付近で津波が発生していると言う情報が入ったというのだ。
これはますます急いで軍部に行かなくては。
美夏はバス通りに出てタクシーを拾った。
タクシーに乗っている間、美夏は過去の震災の事を思い出していた、 高等部に入る直前に起こった、阪神淡路大震災。そして、七年前の新潟中越地震。
美夏が初めて被災地に入り、がれきに埋まった人を捜索していたのは、 阪神淡路大震災の時だ。あの時は、微かな物音や声で人を捜さなくてはいけなかったのに、 マスコミが飛ばしているヘリコプターの音で、散々邪魔をされた。
人のせいにしはしたくない。マスコミだって、真実を伝える為に頑張っていたのだろう。
けれども、あの音が無ければ。あの音が無ければ、冷たくなって発見された人のうちの何人かが、 助かっていたかもしれない。
新潟中越地震の時もそうだ。
阪神淡路の時程被害の規模は多くなかったが、それでも瓦礫の下敷きになっている人は居たし、 マスコミの飛ばすヘリコプターは、軍のヘリコプターが救助活動をする時に阻害していた。
今回の地震は津波も伴ったと言う事だが、今度こそ迅速に、適切に救助活動が出来ればと、 美夏はPHSに付けている、カナメから貰ったお守りを握りしめた。
軍の基地に着き、美夏を含む軍の大将達は、 現在の総理大臣である新橋総理から命を受ける。明日にでも被災地の救援に行くようにと。
美夏達陸空海軍の大将達は、敬礼をして被災地へ赴く覚悟を決めた。
そして、被災地に着いた美夏の率いる陸軍がした事は、瓦礫の下に埋まった人々の救助。
けれども、美夏はそれには立ち会っていない。
何故かというと、大将という役職である為に、被災地に設置された本部で指示を出さなくてはならないので、 集められた情報の分析などをしているのだ。
救助活動が始まって数日、美夏はふと、ある事に気づいた。
マスコミのヘリコプターが、殆ど飛んでいない。
伝え聞いた話ではあるが、新橋総理が言論統制と報道規制を行っていると言う事なので、それのおかげだろう。
日に日に増えていく救助者の数。
まだ息のある者は、軍の方で手当てをし、それでも間に合わない様な人は、少し離れては居るが、 動いている病院へと搬送する。
しかし、それでも死者の数は膨大な物だった。
地元警察の手を借り、死者の似顔絵を描いていく。この似顔絵と、軍医が取った歯型を頼りに、家族を探し出し、 遺骨を手渡すと言う事をしているのだ。
本来なら、遺骨になる前の段階で家族と引き合わせた方が良いのだろうが、 家族が見たらショックを受ける様な状態で発見されている者も少なくないし、何より、 死体を死体のままで置いておくのは衛生的に良くない。
ただでさえ衛生面が悪くなっているこの被災地で、万が一にも疫病を起こす訳には行かないのだ。
休憩時間に誰かが言った。こんなに死体を見て平気なのか?と。
美夏は答える。
「そうですね。ここで横たわっている人が、皆生きて家族の元に帰れるのなら、それが一番良いとは思いますけれど、 亡くなってしまった者は仕方ないでしょう。
私は死体を判別して、家族の元に返すのも仕事です。平気だの平気じゃないだの言ってる場合ではありません」
家族の元に帰れない亡骸は、阪神淡路の時も、新潟中越地震の時も、沢山見た。
今度こそは、少しでも家族の元に帰れる様に。
そう思い、美夏はそっと右手で握り拳を作り、胸に当てた。
救護活動をする一方で、陸軍は避難所に居る人々に届ける支援物資も運んでいた。
その支援物資を、その避難所にどの様に振り分けるか、その判断も美夏が出していた。
各地から届く避難状況のデータを解析し、より適切に振り分けるにはどうしたら良いか、知恵を絞る。
そんな日を何日も何週間も続け、美夏は自分の中に疲労が溜まっていくのを感じた。
けれども、疲れているのは軍の他の人々も同じだ。自分だけが折れる訳には行かない。
けれども、一言だけでも良いから、カナメの声を聞きたい。そう思った。
美夏が被災地で指揮を執り始めてから一ヶ月半程経った頃、ようやく休日らしい休日を取る事が出来た。
休日とは言っても、被災地から動く事は出来ないが、一日自由にして良いと言う事になったので、美夏は久しぶりに、 PHSの電話帳で、カナメの名前を検索する。
聞こえてくる呼び出し音。
そして、数回鳴った後、声が聞こえてきた。
『もしもし美夏?久しぶり』
「久しぶり。カナメは無事だった?」
久しぶりに聞く恋人の声に、美夏の目が思わず潤む。
美夏があのアパートを出た後の話を、カナメは色々と聞かせてくれた。
暫く食欲も無く何も出来ないで居たのだけれど、友人の勤が励ましに来てくれて、 何とかご飯も食べられる様になったとか、アクセサリーの委託をしているお店のチャリティーに参加したとか、 そんな話だ。
美夏の方はと言うと、仕事の内容は機密事項が含まれているので話せなかったが、 ようやくカナメの声が聴けて安心したと、そう言った。
「カナメ、私が帰るまで、元気で居てね」
『勿論だよ。僕、美夏が無事に帰ってくるの、待ってるから』
カナメの優しい言葉に、美夏の目から涙が零れる。
「お願い。そこで、生きて待ってて。
カナメが居なくなっちゃったら、私、帰れる所が無くなっちゃうの。
だから……」
泣きじゃくる美夏に、カナメは優しく声を掛けてくる。
今までずっと張り詰めていた美夏の心が、カナメの声を聞く度にほぐれていく様な気がした。
それから数ヶ月後。軍の救援活動は支援物資を運ぶ事以外は一旦終了を迎え、美夏は東京に帰ってきていた。
まだ寒い時期に起こったあの災害。
救援活動をして居るうちに、また吹く風が鋭くなる季節になっていた。
そんな中、美夏は久しぶりにカナメと共に過ごしていた。
また何時軍から呼び出しが掛かるかはわからないけれど。とカナメに言ってあるが、それでもカナメは、 久しぶりに美夏の顔か見られて嬉しそうだ。
この日はカナメの部屋で、二人でアクセサリー作りの話をしながら、薄桃色をしたお茶を飲んでいた。
カナメの話だと、委託しているお店が定期的に行っている、チャリティー用のアクセサリーも順調に売れている様だし、 それ以外の物もそこそこ売れているという事だった。
流石に確定申告をする程は稼げてないけど。と笑ったカナメが、ふと思い出した様にこう言った。
「そう言えば、今日美夏が来るから、クッキー焼いて置いたんだよね。食べる?」
「そうなの?じゃあ有り難く戴こうかしら」
美夏が微笑んでそう言うと、カナメは冷蔵庫の中からジップ尽きの袋を取りだし、 ペーパーナプキンを敷いた耐熱皿の上に中身を開ける。
「ちょっと焦げてるかもしれないけど」
そう言ったカナメが持って来た耐熱皿には、細長い長方形のクッキーが。
いただきます。と言って美夏がそのクッキーを囓ると、口の中に芳醇なチーズの香りが広がる。
「やっぱり、カナメが作るチーズクッキーは美味しいわね」
「そう?嬉しいなぁ」
小さいちゃぶ台の向こう側で、照れた様に笑うカナメの頭を、美夏はそっと撫でる。
お茶を飲んで、お菓子を食べて、二人一緒に笑い合って。
ようやく自分達の日常に戻る準備が出来てきたのだなと、美夏はそう思った。
暫く話しているうちに、美夏とカナメの結婚の話になった。
本当は、震災さえ無ければもう入籍もして、式も挙げているはずだった。
けれども、震災が有り忙しい日々が続いて、今まで入籍すら出来ない状態だった。
そんな話の中で、カナメが言う。
「入籍だけでも……しちゃう?」
少し照れた顔で、おずおずとそう言うカナメに、美夏は気まずそうな顔をして答える。
「したいけど、私、立場上後半年は喪に服さなきゃいけないのかなって感じがするから、入籍もその後になるかも」
その言葉に、カナメはしょんぼりとするが、テーブルの上に置かれた美夏の手をぎゅっと握って美夏と目を合わせる。
「そうだよね。美夏、陸軍の大将だもんね。仕方ないか。
でも、僕待ってるから。ちゃんと美夏の帰れる場所になれる様にしてるから」
「……ありがと……」
今までカナメに会えなかった不安と、被災地での疲れが、美夏の瞳から堰を切って流れ出す。
それを見て、すぐに隣に来たカナメの腕に抱かれ、泣くだけ泣いて。
その涙を、そっとカナメの唇が拭った。
それから暫く、美夏はたまたま新橋総理と話をする機会があった。
何のことは無い、たまたま国会議事堂に用があり訪れていて、 その食堂でわかめうどんを食べようとしたら隣の席に新橋総理が座ってきたのだ。
「小久保大将、隣、良いですか?」
「はい、どうぞ」
美夏は暫く、お弁当にきゅうり一本丸々を持ってくるなんて凄いな。と思いながら、 お弁当を広げ塩もみきゅうりを囓る新橋総理を見ていたのだが、ふと、気になった事を訊ねた。
「そう言えば、新橋総理に伺いたい事が有ります」
「何でしょう?」
「新橋総理は、この度の震災で言論統制を敷かれました。
その意図をお伺いしたいのです」
美夏の言葉に、新橋総理はきゅうりを噛みしめてから答えた。
今回言論統制を敷いた理由とは。
第一に、民放による不必要な取材の為に、 行方不明者を捜索する軍の行為を妨害されることが有ってはならない。
これは先の阪神淡路大震災の際に学んだことで有る。
第二に、民放による取材不足や不確かなものを根拠とした情報発信で、 現場に居る人々及び全国民に必要以上の不安を与えることが有ってはならない。
第三に、間違った情報で被災地の人々を貶めることが有ってはならない。
新橋総理はそう答えた。
それから、ぽつりとこう付け加える。
「言論統制など、しないで済んだのなら、出来ればしたくなかったのですけれどね」
その呟きに、美夏はまた訊ねる。
「新橋総理が言論統制を敷いた理由は納得できたのですが、言論統制をしたく無かった理由とは?」
もしかして、自分の名声に傷か着く事を懸念しているのか。美夏はそう思った。
すると、新橋総理は残りのきゅうりを口に詰め込み、噛みしめて飲み込んでからこう答えた。
「私の弟が、小説家なんです」
それを聞いて、美夏は何も返せなくなる。
個人的な事で大局を見失ってはいけない。それはわかるのだが、 表現の自由が大切な小説家をやっている弟が居るにもかかわらず、言論統制を決行した新橋総理は、 その時どんな気持ちだったのだろう。
新橋総理が下した今回の決断で、今後他の政治家が言論をどんどん規制していく可能性は、決して少なくない。
それがわかった上で、新橋総理は被災地の事を考えて決断を下した。
もし自分が新橋総理と同じ立場で、カナメに不利になる決断をしなくてはいけなくなったら。
それを考えて、美夏は胸を押さえた。