第七章 婚姻の話

 いつも通りにフラスコの手入れと畑の世話が終わり、これから村人たちの診察を始めるまえのひと休みをしていた、 そんな時間のこと。誰かが玄関のドアをノックした。

 また誰かが蒸留水を買いに来たのだろうかと思ったミカエルは、倚子から立ち上がって玄関を開ける。

「はい、何かご用ですか?」

 そう声を掛けると、目の前に居るのはこの村の村長だった。

 先日、村長の娘が蒸留水を買っていったけれども、ひとつきやそこらで無くなる量では無かったはずだと、 ミカエルは不思議に思う。薬は、診察無しには村人に渡さないようにしているし、 村長がここにやってくる心当たりが無かった。

 その様子を察したのだろう。村長はにこにこと笑ってこう言った。

「やぁ、こんにちは。今日は先生たちにちょっとね、良いお話を持ってきたんですよ」

「良いお話ですか?」

「そうだよ。だからちょっと、上がらせて貰って良いかな?」

 村長の言葉に、 一体何を意図しているのかはわからなかったけれども話を聞かないと帰ってはくれないだろうと判断したミカエルは、 素直に村長を家の中へと招き入れる。それと同時に、奥の部屋に下がっているようにと、リンネに手で指示を出した。

 来客用の倚子を村長にすすめ、ミカエルは台所でコーヒーを淹れるためのお湯を沸かし始める。

「いやはや、リンネ君もいてくれて良かったんだけどね」

「そうですか?

まぁ、必要があれば後で話を聞かせておきますよ。ただ、今はちょっと、あの子に任せていた仕事がありますので」

 やかんの中でお湯が沸くのを見ているミカエルに、村長はかまわず話を続ける。

「私は先生たちがこの村でとても役立つことをしてくだすってるのを、わかってるんですよ。

それでですね、先生たちにはなるべく長くこの村にいて欲しいと思いまして」

「そうですか? ありがたいことです」

 ミカエルは元々この村の生まれでは無い。錬金術の研究のパトロンをしている貴族からこの村のこの家をあてがわれ、 数年前に移住してきたのだ。リンネがミカエルの噂を聞いてここにやって来たのは、それよりも最近だ。だから、 村長はミカエルとリンネがいつかはわからないけれども、 いずれこの村から去ることもあるだろうと考えているようだった。

 ミカエルはむしろ、錬金術の研究をしていると言うことでこの村から追い出される事の方を懸念していたので、 村長が引き留めようとすることは、実は意外だった。

 やかんのお湯が沸き、ミカエルは用意していたカップにコーヒーを淹れる。甘く燻した香りが部屋に広がった。

 コーヒーを村長の目の前に置き、ミカエルがいつもの倚子に座ると、村長は待っていたとばかりにこう言った。

「実はね、先生かリンネ君かのどちらかを、娘の婿に迎えたいんだよ」

 それを聞いて、ミカエルは以前、リンネが村長の娘から貰ったミモザの砂糖漬けのことを思い出す。

 なるほど、そう言う事か。自分の分のコーヒーを飲みながら、思案を巡らせる。村長は、この村に住み、 パトロンから定期的に高額の支援を得て、 更に香油を売ってこれもまた高額の収入を得ているミカエルたちを抱え込みたいのだろう。そして出来れば、 そのおこぼれに預かれればと、そう考えているのだろうなとミカエルは考える。

 ここは小さい村ではあるけれども、村長はやり手だ。他の街とのやりとりで、この村をより豊かに、 より有利な立場にするための手腕を振るっている。そして、その見返りとして、 村の中でも一番裕福な暮らしをしているのだ。

 期待の籠もった表情でミカエルを見るその目からは、ちらちらと欲が見えた。

 ミカエルは言う。

「そのお気遣いはありがたいですが、そんな事をしなくても、僕達はこの村にいるつもりですよ」

 にこりと笑うミカエルに、村長は手を振ってから、声を小さくしてこう言った。

「そんな遠慮なさらずに。

ここだけの話ですが、娘が先生とリンネ君、どちらかはわからないんですが、どうやら好いてるみたいなんですよ」

「そうなのですか?」

「はいはい、そうなんです。

それで私も、最初はどうした物かと思ったんですが、 先生たちなら悪いことはないだろうと思って、今日お話に来たんですよ」

 にやにやと笑う村長に、ミカエルは笑顔を向けたまま困ったように答える。

「娘さんの気持ちはありがたいのですが、今お返事を返すわけにはいきませんね」

「なんでです?」

「まず、娘さんがどちらに気持ちを寄せているのかと言うのがわからないと、お返事の返しようがありませんね。

それに、僕とリンネの意思もあるので、少し考えさせていただきたいです」

 それを聞いた村長は、それなら娘に確認を取って、また後日来ると言い、コーヒーを飲み干してから去って行った。

 

 村長が玄関から出て行き少し間を置いて、奥の扉からリンネが静かに入ってきて言った。

「先生、大丈夫ですか?」

 いかにも心配そうな顔をするリンネに、ミカエルは苦笑いを浮かべる。

「ああ、でも、困ったね」

 不安そうなリンネを倚子に座らせ、残っていたお湯でコーヒーを淹れる。

 少し温いカップをリンネに渡し、ミカエルも残っていたコーヒーに口を付ける。

 リンネがカップを両手で持って呟く。

「村長も、強引なところがあるから……」

 それを聞いて、ミカエルも肩をすくめる。

「確かに、一歩間違えれば恨まれるような人ではあるね」

 村長の突然の来訪に驚きはしたけれども、それはそれとして、 そろそろ診察を始める時間だ。ミカエルはリンネに、落ち着いてからおいで。と言い残し、診察室へと向かった。

 

†next?†