第五章 ユカリの場合

 会社の窓から暖かい陽が差す様になってきた今日この頃、柏原ユカリは新商品の開発の大詰めに入っていた。

白を基調とした室内に、大きめのテーブルが置かれ、その上には試作品のカップ麺とその具材、 それから取り分け様の小皿と試験管が並んでいる。

試験管の中には、各種調味料などが入っていて、これを使って味の調整をするのだ。

 朝から試食の連続で、開発担当の社員たちは昼食時を過ぎても全くおなかが減らないという状況だったが、 一人の女性社員がこう提案した。

「皆さん疲れてると思いますし、そろそろ味が良くわからなくなってると思うので、一旦休憩しませんか?」

 その案に、全員が賛成する。

各々給湯室に行って飲み物を取って来ているのだが、口の中をさっぱりさせたいのか、皆緑茶だ。

 テーブルの側に置かれた椅子に座りながら、ユカリは隣の席に座っている、休憩を提案した女性社員に話しかける。

「やっぱ森下さんは気が利くなぁ。

俺、森下さんの一声が無かったら定時まで食べ続けてたかも」

「んふふ。やっぱり、作る側のコンディションが良くないと、美味しい物は作れないと思うし」

「それな」

 そんな話をして居たら、突然、机の上の取り皿が滑り始めた。

何事かと思い思わず立ち上がると、床が激しく揺れている。

咄嗟に、ユカリが叫んだ。

「みんな、テーブルの下に隠れろ!」

 その声を合図に、その場に居た全員がテーブルの下に隠れる。

キャスターの付いた椅子は床の上を暴れ回り、隠れているテーブルさえも軋みを上げている。取り皿が床に落ちる音、 試験官が倒れる音、湯飲みが転がる音がする中、本当に響いているかどうかもわからない轟音を聞きながら、 揺れが収まるのを待つ。

暫くして揺れが収まり、テーブルの上からお茶が滴り落ちてくるのを感じながら顔を出したユカリの目に入ったのは。

明かり取りの為に大きく取られた窓ガラスに入った、一筋の罅だった。

 

 今までに無い地震を体感した社員達は、各々家族や知り合いに安否確認を取り始めた。

「もしもし、お母さん?

今の地震……」

 森下は家に居る母親に連絡している様だが、ユカリは実家に連絡を入れる前、まず真っ先に連絡を取ったのは。

「カナメ兄ちゃん、地震大丈夫だった?怪我してない?」

 小さな頃からずっと慕っている兄の、カナメだった。

『僕は無事だよ。ユカリは大丈夫?』

 カナメはそう言っているが、これだけ大きい地震だったのだ、怖がっているのでは無いかと心配になったユカリは、 怖い様なら今晩カナメの所に行こうかと言うが、カナメは無理はしなくて良いと言う。

 カナメの宥める様な声に、自分を心配する余裕があるのなら大丈夫かもしれないと、ユカリは少し安心した。

一旦通話を切り、次は実家に安否確認をする。すると、実家は家の中がごちゃごちゃになりはしたが特に怪我も無く、 無事だとの事。

それも確認した後、最後にカナメの下の兄、アレクに安否確認を取ったのだが、 会社で寝ている所だったので何が有ったのかわからない。 と言う所まで訊いた所で異状なしと判断して問答無用で通話を切った。

それから、スマートフォンアプリのメッセージ機能で友人にも安否確認のメッセージを送り、 こちらは気付いた時に返ってくれば良いだろうと言う事で、散らかった職場の掃除を始めた。

 

「あー……どうすっか。

書類お茶でびしょびしょだわ」

 取り敢えずテーブルの上に散乱した試験管や湯飲みを片付けて天板を拭き、 床に落ちて割れている物も有る取り皿の処理をした後、薄緑色に染まった書類を見て、ユカリは思わず声を上げる。

取り敢えず、ある程度水分は吸わせた方が良いだろうと、固く絞ったふきんで書類を押さえつけているのだが、ふと、 森下がこんな事を言った。

「濡れた書類を乾かすなら、冷蔵庫に入れるとよれずに綺麗に乾きますよ」

「冷蔵庫」

 予想外の案を出されたが、それで綺麗に乾くならと、ユカリは濡れてしまった分の書類を、 給湯室にある冷蔵庫へと持っていく。

冷蔵庫の一番上の棚に書類を入れ、また開発室に戻り、地震や掃除などで休む間が無かった職員達と、 今度はゆっくりと休憩に入った。

 

 そしてその日の仕事が終わって。

家に帰ろうと会社を出たユカリは、駅について驚いた。

電車が止まっていると言う掲示と、夥しい人の群れ。一瞬バスに乗って帰ろうかとも思ったが、 バスにも人だかりが出来ていて乗れる気がしないし、道路ももの凄い渋滞だ。

「これは、今日は帰れないかもな」

 溜息と共にそう呟いて、ユカリは再び、会社へと戻っていった。

 

 会社に戻ると、家に帰る事を諦めた社員達が、会社に置いてあった自社商品の在庫を食べて、 緊急時用の毛布を膝に掛けている。

 配給されているカップ麺と毛布を手に持って、ユカリも普段自分が使っている席に着いた。

暖かいカップ麺を食べながらぼんやりと、本当にカナメは大丈夫だろうかという心配をしていたら、ふと、 真っ青な顔をした森下が目に入った。

「森下さん、どうしたんです?

具合でも悪いのか?」

「柏原さん……」

 ぎこちない手つきで手招きをする森下の隣に行ったユカリが見せられたのは、 配信されているニュースが映し出されているスマートフォンの画面。

映し出されているのは、押し寄せてくる海の映像。

船も、車も、家をも押し流すその映像に、ユカリは呆然とした。

こんな物を見たら、普段は気丈でしっかりしている森下だって、顔を青くするのは当然だ。

そしてユカリの頭に過ぎったのは、この映像をもしカナメが見ていたら。もし見ていたら、 きっとまた具合を悪くしてしまうだろう。

 カナメが、大好きな兄が心配で、ユカリは今すぐにでもカナメの元へと行きたくなる。

けれどもそれは、この状況下では到底無理な事だった。

 

 結局その日の晩は、会社に泊まる事になった。

森下が家に、今日は会社に泊まると言う電話をする傍らで、ユカリはカナメの元に電話をするかどうか悩んでいた。

スマートフォンに表示されている時間は、普段ならもうカナメが寝ている筈の時間だ。

もし寝ているのなら起こさない方が良い。でも、寝て居なかったら……?

 ぐるぐるとそんな事を考えて、こんな事では駄目だ、こんな自分をカナメに見せたら余計に不安がらせてしまうと、 ユカリは一旦スマートフォンを机の上に置き、両手の平で頬を叩く。

カナメはきっと大丈夫。そう自分に言い聞かせて、ユカリは毛布を被った。

 

 その次の日から、ユカリの仕事は急激に忙しくなった。

今回の震災を受けて、この会社で緊急時に食べられる非常食料及び保存食の開発をしようと言う事になったのだ。

その為に、今開発中の商品を早く完成させなければならない。

 朝早く家を出て、夜遅くに帰る日々。

カナメと連絡を取りたいが、その余裕が無い。

そんな様子で、疲労と心労が極まってきた、震災から二週間程経った頃、開発途中だった新商品が出来上がり、 久しぶりに休みが取れた。

会社から帰りゆっくりと眠った翌日、ユカリはカナメの元に電話をかけた。

「もしもし、カナメ兄ちゃん?」

『うん、どうしたの?ユカリ』

「地震の後、カナメ兄ちゃんがどうしてるのかずっと心配で、それで……」

 もの凄く久しぶりに聞く様に感じられるカナメの声に、ユカリは思わず涙ぐむ。

結局、カナメを心配して電話をかけたつもりが、カナメに心配される事となってしまった。

『ユカリ、今日お休みなんだよね。

良かったらこれからうちに来ない?』

「うぇっ……良いの?」

『うん。おいでよ。

僕も久しぶりにユカリに会いたいし』

 カナメの優しい言葉にユカリは嬉々として返事をし、早速出かける準備をしたのだった。

 

 それから約二時間半後。ユカリはカナメの家でもてなされていた。

小さいちゃぶ台の上に乗ったマグカップには、琥珀色をした、温かなお茶が注がれている。

「お茶菓子も用意して置いたからね」

 そう言ってカナメが出したのは、ガラスの皿に盛られた丸いクッキー。

大きさが不揃いなそのクッキーからは、ほのかに紅茶の香りがする。

 ユカリとカナメの二人で、お茶を飲みながら震災の後の話をする。

なんでも、カナメは震災直後暫くは、一日の食事をおにぎり一個で済ませていたらしいのだが、ある時、 心配してくれた高校の時からの友人が来てくれて、何とか普通の食事が出来る様になったのだと言う。

それを聞いて、ユカリは涙目になってカナメに抱きついてこう言った。

「ごめん。カナメ兄ちゃんがそんな辛い思いしてたなんて、知らなかった。

もっと早く気付いてあげられてたら、ご飯作りに来てたんだけど……」

 鼻を啜りながらユカリがカナメにしがみついていたら、カナメが優しく、ユカリの背中を叩く。

「過ぎた事は仕方ないよ。

それに、ユカリだって忙しかったんでしょ?

僕、ユカリが無理しちゃう方が嫌だな」

 カナメの優しい声と手の感触に、ユカリは暫く泣き続けていた。

 

 その日は二人で色々な事を話しながら過ごし、夕食時。

昼食はカナメが作ったので、夕食はユカリが許可を得て作る事になった。

自分が作った料理をカナメに食べて貰うのは、ユカリの密かな楽しみなのだ。

冷蔵庫と冷凍庫に有る物を、バランス良く組み合わせ、何品か作る。

それをちゃぶ台の上に置き、二人はいただきますをして、食事を始めた。

 料理を食べ、カナメが幸せそうな顔で言う。

「やっぱりユカリが作るごはんは美味しいな」

「そう?何だったら何か作り置き用のも作っていこうか?」

 カナメの笑顔を見て、ユカリの頬が思わず緩む。

カナメのこの笑顔が見たくて、ユカリは調理師学校に進んだのだ。

本当に、小さなきっかけだったけれども、そのおかげで今、ユカリは災害に遭った人達の役に立てるかもしれない、 そんな仕事に就く事が出来ている。

 二人で話しているうちに、ユカリの仕事の話になった。

今度災害時用のインスタント食品の開発をする事になるのだが、どういう物が求められているのか。そんな話だ。

それに対し、カナメはこんな話をする。

「そうだなぁ、だいぶ前の事になるけど、阪神淡路大震災って有ってね、ユカリはその時の事覚えてるかな?」

「いや、良く覚えてない」

「ん~、そっかぁ。

取り敢えず、今回の震災に負けないくらい大きい地震が関西で有って、その時、 被災地で水を汲んで湧かすって言うのはすごく難しいから、カップラーメンを持ってこられてもどうしようも無いって話を、 聞いた事があるんだよね」

 その言葉に、ユカリは意外そうな顔をする。

「そうなん?カップ麺駄目なんだ」

 今度有る商品開発会議の時にカップ麺の案を出そうとしていたユカリだが、これにを聞いて考えを改めなくてはと、 そう思った。

「元々麺に味が付いてるタイプのインスタント麺ならそのまま囓れば良いんだろうけど、 味が濃いから結構難しいと思うんだよね」

「なるほどー」

 カナメの言葉を興味深く聞きながら、ユカリはスマートフォンにメモを取る。

この情報は、新商品の開発に役に立つという雰囲気を、何となく感じた。

 

 二日有った休日でカナメの家に一泊し、リフレッシュしたユカリは、会社の商品開発会議の時に早速、 カナメから聞いた話を出した。

しかし、それを出した事で、その場に居る社員全員が頭をひねってしまう。

元々この会社はカップ麺のメーカーなので、カップ麺が駄目となると、機材の都合も有り製造が難しいのだ。

なかなか良い案が出ず、ユカリが八つ当たりされ始めた所で森下が挙手してこう言った。

「我が社はカップ麺製造メーカーですよね?

確か、前に機材の一覧を見た時に、食品をフリーズドライにする機械が有ったのを記憶しています。

その機械を使って、野菜や果物をフリーズドライにしたら、食べ易い保存食になるのでは無いでしょうか?」

 その提案で、会議室に安堵感が広がった。

そして、今有る機材でどの様な物を作るのか、そんな話題になっていく。

その様子を見てユカリは、カナメの助言に感謝したのだった。

 

 その日からまた、ユカリが所属する商品開発チームの仕事が忙しくなってきた。

企画として通ったのは、スナックとして食べられる、野菜や果物をフリーズドライにした物で、 もしお湯が有るのなら、スープにしても食べられる。そんな保存食だ。

 サンプルを作る前に、まずはどんな食材が適しているのか、それの調査。

フライでは無くあくまでもフリーズドライなので、 一般的に売られている野菜チップスとは適した野菜が変わるだろうと言う推測がされている。

毎日毎日、片っ端からフリーズドライにした野菜を食べ続ける。

 ある日の休憩中、森下がユカリにこう話しかけてきた。

「それにしても柏原さん、阪神淡路大震災なんて、良く覚えてましたね。

私、あの時まだ小さかったから、殆ど覚えてないんですよ」

 素直に凄いと思っている様子の森下に、ユカリは微笑んで答える。

「実は、阪神淡路の話、兄から聞いたんですよ。あの時カップ麺は余り役に立たなかったって」

「そうなんですか」

 納得した様な森下の顔を見て、ユカリは改めて、カナメの事を思い出していた。

もし、今開発中の保存食が完成したら、その時はカナメに報告してお礼を言おう。そう心に決めた。

 

 結局、その商品が完成し、一般流通する様になるまで、一年と少し掛かった。

まだ売り上げなどはわからないが、ある休みの日に、ユカリは早速その商品を何種類か買って、カナメの家へと向かう。

 相変わらずこぢんまりとしているアパートの一室の呼び鈴を押すと、元気そうな顔でカナメが迎えてくれる。

早速家に上がらせて貰い、ユカリはスーパーの袋の中から幾つか大きめの、 縦長な缶詰を取り出しカナメに見せ嬉しそうに言う。

「これ、カナメ兄ちゃんのアドバイスを元に作った非常食だよ!

カナメ兄ちゃんの好きなイチジクもあるんだ!」

 それを聞いたカナメは、びっくりした顔になった後、照れた様な、ふわりとした笑顔を見せた。

 

†next?†