第四章 カナメの場合

 風の肌辺りも優しくなり、日差しも暖かくなってきた頃。あるアパートに住んでいる柏原カナメは、 背の高いパソコンラックとそれに添えられたキャビネット、白い本棚とその上に乗ったトースター、黄色いタンス、 小さめの冷蔵庫の上に乗ったオーブンレンジ、小さなちゃぶ台、畳まれた布団が置かれた自室で洗濯物を畳んでいた。

畳んでいるのは、淡い色のワンピースやジャンパースカート、渋めの色のカットソー、それに下着だ。

畳んだ洗濯物をタンスに綺麗に並べて収め、一段落した所で本棚からクリアポケットファイルを取り出す。

ファイルの中には、アクセサリーのラフ画が描かれた紙が入っている。

そう言えば、いつもアクセサリーを委託しているお店から、 再版依頼の来ている物が有ったな。そう思いながらデザイン画に張られている付箋を見て、 他のファイルを引っ張り出す。

そのファイルにはカナメが得意とするプラバン細工用の図案が収められているのだ。

「えっと、テーブルカットの図案は……っと」

 ファイルの中から一枚取りだしたその紙には、カットされた宝石の絵が描かれている。

それをちゃぶ台の上に置き、本棚に挟んであるプラバンを取り出す。

それもちゃぶ台の上に置き、キャビネットから油性ペンを取り出そうとしたその時、身体を支えていた腕が、 腕を支えていた床が揺れた。

カナメは昔から地震に慣れては居たが、この揺れはいつもとは違う。直感的にそう思った。

この狭い部屋で身体を隠せそうな所は無い。

激しくなってくる揺れの中、カナメは咄嗟に掛け布団を被り、床にうずくまった。

パソコンラックから紙が傾れ落ちる音、本棚の上でトースターが揺れる音、それから、 本当に響いているかどうかもわからない轟音を聞きながら、揺れが収まるのを待つ。

 どれだけそうしていただろうか。暫くして布団から出てきたカナメの目に入ったのは、 黄色いチェックのカーテンに囲まれた窓に入った、一筋の罅だった。

 

 こんなに大きい地震は初めてだ。震える足で立ち上がり、パソコンラックから落ちた紙を整理していると、 インターホンが鳴った。

誰かと思い出ると、同じアパートに住んでいる恋人の美夏だ。

早速玄関に行ってドアを開けると、黒いスーツを着た美夏が心配そうに立っていた。

「カナメ、怪我は無い?」

「うん、僕は無事だけど、美夏は?」

「私は無事。ただ、軍の方から緊急メールが届いてね、行かなきゃいけないの」

 美夏の言葉を聞いて、カナメは顔を曇らせる。

美夏は大日本帝国陸軍の大将で、今回の地震で甚大な被害が何処かで出ていたとしたら、 軍を率いる為にそこへ向かわなければならない。

それが仕事だし、美夏が日本国民を守るその仕事を誇りにしているのは、カナメも知っている。けれども、 危険な所に行って欲しくなかった。

 カナメの様子に気付いたようで、美夏はカナメの頭を撫でながら言う。

「大丈夫。無事に帰ってくるから」

「うん……気をつけてね」

 軽く唇を重ね合わせたあと、美夏はまずカナメがするべき事の指示を出す。

バスタブに溜められるだけ水を溜める事と、炊けるだけ米を炊いておく事、それから、他の食料の確認をする事。

指示を出した美夏は、これから同じ事を、カナメと同じ階に住んでいる友人の悠希に伝えに行くと言って、 その場を離れてしまった。

本当は美夏にもっと居て欲しかったが、我が儘を言っている場合では無い。

カナメは早速玄関のすぐ側にあるバスルームに入り、バスタブに栓をして蛇口をひねる。

すると、蛇口から出てきたのは赤茶けた水だった。

徐々に溜まっていく、鉄錆の混じった水を見て恐怖を覚える。

思わず竦む脚を何とか動かし、台所にある食料の確認をする。

シンクの下には、袋に半分程入った米と、買い置きをしてあるパスタ、未開封の小麦粉、 あとは調味料のストックが置いてある。

次に、冷蔵庫を確認する。中には、 ポケットの方にいつでも冷たい水が飲める様に汲んである湯冷ましの水がペットボトル二本分、 常備菜として作り置いているピクルスと、塩漬けにしてある鶏胸肉が一枚、 野菜はトマトと半分に切ってある大根が入っている。一旦扉を閉め、冷凍庫の方を見ると、冷凍してある鶏胸肉に、 刻んだもやし、にんにくの芽、ささがきにしたゴボウ、房を分けたシメジなどが有る。

 取り敢えず、食料の確認をした所で米を炊く準備をする。

台所の蛇口をひねっても、やはり鉄錆の混じった水しか出てこない。

しかし、流したままにして置いたら、段々と澄んだ水が出る様になってきた。

それを見て少しだけほっとしたが、それでもまだこの水を使うのには不安がある。

取り敢えず、まだ暫くこの水は流したままにしておいて、汲み置きの水で米を炊く事にした。

 

 米を炊飯器にセットして、パソコンラックから散らばった紙を片付け終わった頃、カナメのPHSに着信が有った。

一体誰からかと思ったら、弟のユカリからだ。

「はいもしもし」

『カナメ兄ちゃん、地震大丈夫だった?怪我してない?』

「僕は無事だよ。ユカリは大丈夫?」

『試験管とかが軒並みすごい事になってるけど、俺は無事。

でも、こんな大きい地震怖かったよね、もしまだ怖かったら、今晩そっち行こうか?』

 頻りに自分の事を心配してくるユカリに、カナメは少し口元を綻ばせて答える。

「ん、ありがと。

でも、大丈夫だから。ユカリも仕事忙しいんだし、無理しないでね」

 そう言って、これから職場の掃除があると言っているユカリとの通話を切って。

今度は、カナメがPHSの電話帳検索をして、電話をかける。

もし相手が仕事中だったらと、かけてから気付いたが、数回コールが鳴った辺りで相手が電話に出た。

「もしもし勤、無事?」

 カナメが電話をかけたのは、高校時代からの友人の勤。

勤は仕事が不定期にしか入らないので、家に居たら美夏から聞いた食料に関する事などを伝えようと思ったのだ。

すると、勤はたまたま仕事が終わったばかりで、今外に居ると言う。

そして、仕事に集中していて、大きな地震があった事に気づいていなかった様だった。

『あー、それで電車止まってるのか。

どうすっかな、この辺のバスよくわかんないし、タクシーで家まで帰るか……』

 結局、家までタクシーで帰るという勤に、カナメは美夏から聞いた事を伝え、通話を切った。

 

 取り敢えず。地震の規模はどんな物だったのかと言うのを調べる為に、カナメはパソコンを立ち上げ、 パソコン用のテレビチューナーの用意もする。

パソコンが起動し、テレビを付けると、そこに映し出されたのは、押し寄せてくる海の映像。

船も、車も、家をも押し流すその映像に、カナメは呆然とする。

台所で流れている水の音を聞きながら、ディスプレイを観ている内に、堪えようのない程の恐怖が湧いてきた。

流されているその場に居る訳では無い、安全な所に居るはずなのにも関わらず、足の震えが治まらなかった。

 

 それから一週間程。原発が損壊した事により、節電ムードが漂う中、カナメはパソコンはもとより、 暖房も付けず、地震のあった日に炊いたご飯で作った小さなおにぎりを、温める事も無く少しずつ食べて過ごしていた。

カナメの家のコンロは電熱式で、料理をするだけでも電力を食ってしまう。

だから、カナメは料理をする事すらも控えなければいけないと思い込んでいたのだ。

寒い部屋に、冷たい僅かばかりの食事。それは確実にカナメの体力を削っていた。

 カナメが、もし仕事をしていたとしたら、ここまで追い詰められはしなかったかもしれない。けれどもカナメは、 十年程前から患っている疾患で、医者から就業を禁止されている。その事が今、カナメの事を追い詰めていた。

 寒い部屋の中で、今頃被災地に居るであろう美夏の事を心配し、緊張と恐怖で震えるカナメ。ふと、 PHSに着信が入った。

誰かと思ったら、友人の勤からだ。

「もしもし……」

 青ざめて震える唇からなんとか声を絞り出し、電話に出る。

すると、電話の向こうの勤が、ちゃんとご飯を食べているのか、ちゃんと眠れているか、そんな事を訊いてきた。

心配そうではあるが元気なその声に、カナメは思わず涙ぐむ。

そして、殆ど食事をしていないと勤に言う。

すると勤は、これからカナメの所に行くと言い、励ましの言葉をかけて来た後、通話を切った。

勤の家からカナメの家までは、一時間半程かかる。勤が来るまでの間、カナメは布団にくるまって泣いていた。

 

 勤との通話が切れて約二時間、勤がコンビニの袋を下げてやってきた。

カナメは涙で濡れた目を擦りながら、勤を部屋の中に入れる。

流石に人が来たのに布団を敷きっぱなしではまずいと思ったのか、カナメが布団を畳む。

その傍らで、勤はハンガーを一本借りて、着ていたトレンチコートを脱いで、納戸に付いているフックに掛け、 カナメに訊ねた。

「カナメ、台所借りて良いか?」

「う、うん。良いよ」

 カナメの返事を訊いて、勤はコンロの上に置いてあった小鍋を洗い、水を張って火に掛ける。

お湯を沸かしている間に、コンビニの袋からカップ麺を幾つか取り出し、またカナメに訊ねた。

「どれ食べる?」

「いいの?

……でも、なんか食欲無くて……」

 暗い顔で俯き、そう呟くカナメを、勤はそっと抱きしめてこう言った。

「いいから。こういう時は、何でも良いから温かい物食べないと、落ち込んだままになるぞ。

小さいカップ麺も買ってきたから」

 暫く勤の腕の中でじっとしていたカナメだが、 少し身体が温まって安心した様で勤から身を離してカップ麺を選び始める。

選んだのは、小さいカップのカレーラーメン。

「これ、食べて良い?」

 おずおずとカップを勤に見せるカナメ。

その頭を撫でて、勤も大きめなカップの豚骨ラーメンを手に取る。

「じゃあ、この二つ作って一緒に食べようか」

「うん」

 勤はカップ二つの包みを開け、蓋を半分まで開けてから、鍋の中で湧いているお湯を注ぐ。

その間に、カナメは小さなちゃぶ台を用意して、冷蔵庫の中から水を取りだし、 二つのコップに注いでちゃぶ台の上に乗せている。

台所から勤が持って来たカップ麺もちゃぶ台の上に乗った所で、勤がカナメに声を掛けた。

「美夏さんが被災地行ってて、不安だろ」

「不安だけど、これも美夏の仕事だし、仕方ないよ」

 そっと冷たいコップを手で握るカナメに、勤が言う。

「美夏さんが帰ってきて、その時お前がぼろぼろだと、また美夏さんに心配掛けるだろ?

だから、美夏さんを待ってる間、お前はなるべく元気で居られる様にした方が良いんじゃ無いかな。

俺が協力できる事なら、なるべくするから」

 勤の優しい言葉に、カナメは思わず涙ぐむ。

「うん、ありがと……」

 その後暫く二人とも無言で居たが、出来上がったカップ麺を食べて、カナメはようやく笑顔になれた。

 

 その日からまた暫く。なんとか暖房とパソコンを使う気持ちの余裕が出来たカナメの元に、 いつもお世話になっている委託先のお店からメールが来た。

なんでも、お店で被災地に送る義援金を集める為のチャリティーをやるという。

それに、是非カナメも参加して欲しいと言う事だった。

ただチャリティーと言うだけでは作家も緊張するかもしれないので、お題を設けてイベント感覚で執り行うという。

提示されたお題は『アンティーク』。

難しいお題ではあるが、これに参加する事で少しでも役に立てるならと、 カナメはチャリティーに参加する旨を店側に返信した。

 

 それから二ヶ月後。お店のチャリティーも何とか成功を収め、その後も定期的に、 お題を決めてチャリティーイベントが開かれている。

それらに出来る範囲で参加しながら、カナメはアート系の、まるで文化祭の様なイベントに、 アクセサリー販売の為に出展していた。

本当はこのイベントは、美夏と一緒に来るはずだった。けれども美夏は未だ被災地で指揮を執っているので、 一人で参加している。

 お昼時、手作りのお弁当をブースの中で食べていたら、 机の上にシルバーや天然石で出来たエキゾチックなアクセサリーを並べている、隣の出展者に声を掛けられた。

「お姉さん、お弁当自作なんだ。偉いねぇ」

 そう言いながら、コンビニ弁当を食べるお隣さん。彼曰く、普段は完全に自炊をしているのだが、 こう言ったイベント毎の時ばかりはコンビニ弁当に頼りがちになるとの事。

本当はコンビニ弁当なんて何が入ってるかわからないから避けたいんだけどね。と言う彼が、カナメにこう訊ねてきた。

「やっぱり料理にこだわりとか有るの?」

 その問いに、カナメは微笑んで答える。

「前は特に気にしてなかったんですけど、最近はなるべく茨城県産の野菜を使う様にしてます」

 すると彼は笑ってこう言った。

「茨城なんて今、放射能が怖いとか言われてるじゃ無い。なんで茨城県産を使うの?」

 カナメは動じる事無く、また答える。

「実家が、茨城なんですよ」

 彼が挑戦的な視線を投げかけ、また訊ねる。

「放射能が検出されても、茨城の野菜を買い続けるの?」

 その問いにも、カナメは意思の籠もった声で、毅然と答える。

「はい」

 すると、彼は呆れた様な、それでいて感心した様な笑顔を浮かべて言った。

「そうか。僕だったら放射能が出てきたら怖くて買えないよ。

でも、君は買い続けるんだろう?

それは愛だよ」

 その言葉に、思わず目頭が熱くなる。

自分に出来る事はと言えば、チャリティーに参加する事と、こうやって故郷の野菜を買って、食べる事だけ。

端から見たら何もしていない様な物だと、ずっとそう思っていたのに、それも愛だと、そう言ってくれる人が居た。

 悲しいのか、嬉しいのかわからないままに零れそうになった涙を右手の中指で押さえて、 また暫く隣のブースの彼と話をする。

そうしている間にも、彼やカナメのブースに客がやって来て、少しずつではあるが商品が売れていく。

 ふと、勤の言葉を思い出した。

美夏が帰ってきた時、カナメがぼろぼろだったら心配する。その言葉を反芻してカナメは、 被災地の事ばかりに気を取られず、まずは自分が元気になろうと、そう思った。

 

†next?†