第十七話

 珍しくドラコから連絡を取ってきたので、ペリエは少し嬉しく思っていたのだけれども、今までに聞いたことのないような殺意の籠もった声でドラコが言った、殺したいやつがいる。という言葉に、思わず戸惑った。
 今までにドラコが誰にも憎しみを向けなかったわけではない。幼い頃に自分の弟を攫ったという神様のことを憎いと言っていたこともある。けれどもその時の言葉は今のように殺意に満ちたものではなく、悲哀を含んだものだったのだ。
「突然どうしたの。なにがあったの?」
 ペリエがそう訊ねても、ドラコはなにも答えない。代わりに答えたのはゼロだった。
「実は、帰りに通り魔に遭って、ドラコのマスクを剥がされたんよ。それで……」
 それを聞いて、ペリエもショックを受ける。今日の帰り際、そのまま素直に別れてしまわずに、無理を言ってでもドラコを家まで送り届けていれば、ドラコはこんな目に遭わなかったのではないかと、思わず自分を責めた。
 ゼロが説明したのを聞いてか、ドラコが取り乱した声で言う。
「ねぇ、あいつを殺せる? ペリエが殺せないなら、居場所さえ割り出してくれれば私が殺す。ねぇ、お願いあいつを殺してしまいたいんだ」
 普段人を殺すなんて絶対に言わないドラコが、何度もそんなことを口にするなんてと、ペリエは悲しくなる。それほどまでに、暴漢に顔を見られたという事実が、ドラコのことを疵付けたのだろうというのがわかった。
 ペリエは泣きそうな声でドラコに言う。
「お願いだから、そんなこと言わないで。
そんな卑劣なやつのために、手を汚すなんて言わないで。お願い、ドラコは純潔のままでいて。私のためだと思って」
 それはもはや懇願だった。ドラコはきっと、変わり者なのだと思う。けれどもそれゆえに、穢れというものを知らない。いや、知らないと言うよりは寄せ付けていなかったのだ。
 ドラコが鼻を啜りながら言う。
「でも私、あいつのこと許せないよ」
 ペリエはしばらく黙り込む。どうするべきか思案を巡らせているのだ。そして、ドラコにこう提案した。
「ねぇ、そいつの頭からドラコの記憶を消せるなら、それで妥協できない?」
 その提案に、ドラコは一瞬声を詰まらせて、こう返す。
「私の顔を一切覚えてないって言うなら、我慢できる。でも、そんなことできるの?」
「うん、できるんだ。未発表の呪術でね、今の段階ではちょっと面倒ではあるけど、ちょっとした術式でやれるんだよ」
「なら、それをやって!」
 この方法でドラコが本当に納得したかどうかはわからない。けれどもドラコが自分の手を汚すことはないとわかったことで、ペリエは少しだけ安心した。
 ペリエはドラコにこう訊ねる。
「それで、その呪術をやるのに相手の痕跡を辿らないといけないんだけど、その、無理矢理剥がれたマスクって、洗わないでおいてある?」
「触りたくもないから置いてある」
「そっか。触りたくないのに悪いんだけど、そのマスクを明日うちに持って来てくれる? それを使って呪術をやるから」
 なるべく優しい声でドラコにそう言うと、ドラコは弱々しい声でわかった。と言う。
 それからしばらくの間、ドラコが落ち着くまで話をして、そろそろ眠れるかという頃に通話を切る。通話を切ってスマートフォンを机に置いたペリエは言葉にならない叫びを上げて机を叩いた。
 そして翌日、ドラコは言われたとおりに暴漢に剥がれたマスクを持ってペリエの家を訪れた。ビニール袋に入れているあたり、本当に触りたくないのだろう。
「ねぇ、これで本当にあいつの記憶を消せるの?」
「うん。まずは追跡からだけどね」
 そう言ってペリエは、まずは手袋を着けてドラコの頬を綿棒で擦る。それから、その綿棒と渡されたマスクを部屋の中にある顕微鏡のところへと持って行き、綿棒とマスクを覗き込んでいる。
「その顕微鏡も呪術に使うのか?」
 ゼロがそう訊ねると、ペリエは顕微鏡を覗き込んだまま返す。
「そう。皮脂とかそういう分泌物の判別ができる呪術用の顕微鏡なんだけど、これであいつの皮脂を探し出して、それを触媒に術式をするつもり」
 その説明で、先程綿棒でドラコの頬を擦ったのはドラコのサンプルを採るためだったのかとゼロとドラコは納得する。
 暴漢の皮脂を採取したところで、ペリエはドラコにこう言う。
「あいつが憎いのはわかるけど、それなら尚更、術式の間は呪術の部屋に入らないでね。
下手すると失敗するから」
「うん、わかった」
 ドラコが素直に頷くと、今度はゼロが不安そうにペリエに訊ねる。
「でも、本当に記憶が消せるとして、そんなことやってペリエは罪に問われないのか?
呪術だって無法地帯じゃないんだし」
 そう、ゼロの言うとおり、呪術に関する法律は数多くある。そのもっともたるものは、呪術によってでも人を殺してはいけないというものだ。それ以外にも、他人の財産を掠め取るだとか、不幸を願うだとか、そういったことは原則禁じられている。だからペリエはこう答えた。
「ばれないようにやる。それに、この呪術はまだ法整備されてないから」
 部屋の壁に掛けていた呪術用のローブを羽織りながら、ペリエはこう続ける。
「それに、暴漢が無理矢理ドラコの目の色を見たのは絶対に許せない。
俺だって、ドラコの目の色を知らないのに」
 それはペリエの本音なのだろう。いつもの口調とは気迫が全然違った。
 ペリエはドラコをテーブルに着かせ、飲み物を出す。
「大丈夫だから、少しの間ここで待っててね。良い子にしててくれれば、ちゃんと成功するから」
「……うん」
 ドラコが落ち着くように、ペリエはドラコの頭を撫でてから呪術用の部屋に入る。扉を開けたときに微かに香ってきたのは、きっと呪術を行うときに焚いたか、もしくは呪術の後に清めのために焚いたハーブの匂いだろう。
 呪術用の部屋から、ペリエの声は聞こえない。なにをしているかもわからない。それが不安なのか、ドラコはずっと身を固めたままだ。その姿を見てゼロは思う。本当に、いっそのこと自分を責めてさえくれれば、ドラコはもう少しだけでも楽になれたのかも知れない。でも、ドラコはゼロを責めるようなことは絶対にしなかった。それは今回だけのことでなく、今まであったどんな失敗の時もそうだった。
 ドラコはきっと、強いのだと思う。自分で背負わなくてはいけないことは自分で背負い、今回のように自分では背負いきれないことは他人を頼る。それに、相手を選ぶとはいえ、弱味を見せるということも知っている。強い心を持って、しかも人を信頼していないとできないことだ。
 そのドラコでも、今回のことはさすがにこたえている。それもそうだ。家族でも恋人でも、それどころか友人ですらない見ず知らずの相手に顔を見られることは、人間にとって恥ずべきことだし、屈辱だと思ってもおかしくないことなのだ。
 ずっと黙り込んでいるドラコにゼロが話し掛けられないでいるうちに。呪術用の部屋からペリエが出てきた。ペリエの体は、清々しい芳香で包まれている。
 ペリエがひとことこう告げる。
「うまくいった」
 すると、ドラコが着けているマスクの縁から、涙の筋が伝いはじめた。ドラコが、昨夜のような震える声で言う。
「あんなやつに顔を見られたのが悔しい」
 ドラコが泣いている姿は、ペリエの記憶の中にあるかどうかもわからない。つまり、それだけドラコは普段泣かないということだ。
 そのドラコが、悔しさで泣いている。それを見てしまうと、ペリエはやはり、あの男は殺してしまった方がいいのではないかと思う。けれども、それはしてはいけないことなのだ。法律で禁じられているからではなく、自分があの男を殺すことで、ドラコに汚名を着せられることが、ドラコが穢れるのが受け入れられないのだ。
 ペリエは手袋を着けたままの手でドラコの涙を拭って言う。
「大丈夫。もう君の顔を知っている人は、両親以外にいないから」
「ほんとに?」
「ほんとだよ」
 それから、ペリエはふと疑問に思ったことをドラコに訊ねる。
「でも、あんなことよく私に相談できたね。マロンさんの方が女の子同士だし、相談しやすかったんじゃない? それとも、マロンさんに私に相談するように言われた?」
 するとドラコは、鼻を啜ってこう返す。
「だって、真っ先に浮かんだのがペリエだったんだもん」
 それを聞いて、ペリエは思わずドラコの方をじっと向く。ドラコが疵付いたときに、真っ先に自分を頼ってくれたというその事実が、胸を締め付けた。

 

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