第十六話

 ペリエと本屋とアルケミストアを回った帰り、電車の中でなんとか座れたドラコは、本の入ったナップザックを抱えてうつらうつらとする。ペリエには大丈夫と言ったものの、重い本を背負って広いアルケミストアの中をうろうろしたものだから、疲れてしまったようだった。
 こういう時は痴漢に狙われやすい。それがわかっているゼロは、しきりに周りを見回して、若干殺気立ちながら警戒していた。
 こんなに疲れているのに、帰りにスーパーに寄っていくとドラコは言っていた。たしかに明日食べるものを買っていかないといけないのはわかるけれども、ドラコはある程度冷凍で食材を蓄えていたりする。だから、駅に着いた時点で体力的につらそうだったら、真っ直ぐ帰るように言おうとゼロはドラコを見ながら思う。
 自宅最寄り駅に着き、ドラコが目を覚ます。ナップザックを背負って電車を降りた姿は、少しだけ疲れが取れているように見えた。
 これならスーパーに寄って行っても大丈夫かとゼロは判断する。改札を出てスーパーに向かうドラコに、ゼロは黙って付いていった。
 スーパーに入ると、まず見に行ったのはお総菜コーナーだ。並んでいるお総菜を見ると、献立の参考になるのだ。それから、精肉売り場を見て、ドラコが考える素振りを見せる。
「ゼロちゃん、冷凍庫の中にまだお肉あったよね?」
「冷凍庫どころか、冷蔵庫の中で解凍してるのあったじゃん。ペリエからもらった鶏肉」
「あ、そうだった。明日の朝か昼はそれ食べようかな。でもハーブで漬け込みたいなぁ」
 そんな話をしながら、今度は青果コーナーに行く。真っ先に目に入ったのは、色とりどりの花だ。菊の花やデンファレ、それにパンジーや薔薇や金魚草を見て、ドラコはマロンを思い出したようだった。
「金魚草とデンファレ買っていこう」
「サラダにするのか?」
「サラダもいいけど、金魚草は炊き込みごはんもいいかも」
 金魚草とデンファレを籠に入れ、野菜のコーナーも見る。なぜか安くなっている赤ピーマンとカット野菜ミックスを籠に入れ、今度は冷凍食品コーナーに行く。冷凍食品は、レンジで温めればすぐに食べられるタイプのものを常にいくつか常備しているほかに、ドラコはとにかくなんにでもベジタブルミックスを入れるので、かなり頻繁にベジタブルミックスを買っている。この日も、ドラコは迷わずにベジタブルミックスを籠に入れた。
「お買い忘れはありませんか?」
 ゼロが確認するようにドラコに訊ねる。ドラコは改めて籠の中を見て、思い出したように言う。
「そうだ、アボカド買おうと思ってたんだ。
アボカドの梅焼き夜食で食べたい」
 それから、また青果コーナーに戻りアボカドを籠に入れる。今度こそ忘れ物はないようだ。
 レジに並んで会計を済ませ、ドラコは小さめの買い物袋を下げてスーパーを出た。
「アボカド夜食にするのはいいけど、明日の朝ごはんは決まってるのか?」
 ゼロの問いに、ドラコは少し考えて返す。
「うーん、金魚草の炊き込みごはんにしようかと思ったけど、お粥も捨てがたい。
あー、でもどうしよう。自動炊飯が捨てがたいんだよなぁ」
「火の前にいなきゃいけないのはかわらんけどな」
 ふたりでしばらく話しながら歩いていると、だんだん周囲が暗くなってくる。駅前を離れて、灯りが付いている店がなくなってきたのだ。民家と街灯の明かりだけの道を歩いていると、背後から足音が聞こえてくる。ゼロが咄嗟に背後を確認すると、会社帰りとおぼしき風貌の人が数人、ぱらぱらと歩いてきてドラコを追い抜いていく。普段ならそうそう追い抜かれるということはないのだけれども、やはり重い物を背負っているので疲れているのだろう、ドラコの動きが若干鈍い。
 少しの間、通り過ぎていく足音を聞きながら歩いていると、だんだんと人足が減っていく。特に怪しいやつはいなかったなとゼロが安心したその瞬間、異変を感じ後ろを振り向いてドラコに声を掛ける。
「ドラコ、後ろ!」
「えっ?」
 ゼロの声にドラコが振り向くと、そこには体格のいい男が街灯を背に立っていて、手を振り上げて瞬く間にドラコが着けていたマスクを剥ぎ取って投げ捨てた。
「あっ……」
 恐怖で声が出ないドラコの顎を荒々しく男が掴み、にやにや笑いながらマスク越しにじっと見る。それから、ドラコのことを突き飛ばしてその場を去って行った。
 まさかこんなことになるなんて。突き飛ばされてすぐに両手で顔を隠しているドラコに、ゼロは道の上に投げ捨てられたマスクを探し出し、拾ってきてドラコの側に置く。
「ドラコ、あの」
 突然ドラコが辱めを受けたことに戸惑い、どう声を掛けたらいいのかゼロが悩んでいると、ゼロの声が聞こえなかったかのように、ドラコは今までにゼロが一度も聞いたことのないような、恨みの籠もった声で何度もこう呟いている。
「殺してやる……殺してやる……」
 こんなに激しい殺意を他人に向けているドラコを見たのははじめてだ。神様に対する強い憎しみとは違ったその感情に、ゼロはどう対処すればいいのかがわからない。
 けれどもとりあえず。とゼロはドラコの肩を叩いて声を掛ける。
「とりあえず、マスク付けな。顔出したまんま道歩くわけにもいかないだろ」
「あ、ああ、そうだね……」
 顔を手で覆ったままのドラコが、鋭い声でゼロに言う。
「ゼロちゃん、私の顔、見た?」
「えっ? 見てない」
 そう、ゼロはドラコが暴漢に襲われたときはドラコの後ろにいたし、マスクを外され突き飛ばされたあとはドラコが手で顔を覆っていたので、本当にドラコの顔を見ていない。
 ゼロの言葉が本当だとわかった様子のドラコが、ゼロに他の方を向いているように言ってからマスクを顔に着け直す。
「もういいよ。帰ろうか」
 そう言うドラコの声は震えていて、ゼロはドラコが泣いているのかと思った。けれども、マスクの下からは涙が流れていない。あんな目にあったのに、気丈だなとゼロは思った。
 ふと、ドラコにこう言う。
「私がもう少し早く気づいてれば、あんな目に遭わなくて済んだかもしれない。ごめん」
 するとドラコは、頭を振ってこう返す。
「ゼロちゃんは悪くない。私も油断してた。
それに、油断してたからって、あんなことをする変態野郎が一番悪いに決まってる」
 それから、先程の男のことが余程憎々しいのだろう。ドラコはまたひとこと、殺してやる。と呟いた。
 淡々と家まで帰り着き、ドラコは台所に買い物袋を置いてそのまま自室に行く。それにゼロは当然付いていったのだけれども、ドラコは部屋に入ってすぐにゼロに背を向け、着けていたマスクを外して投げ捨てた。それを見てゼロは驚く。ドラコがこんなふうに、マスクを粗雑に扱ったことは今までにないからだ。
「ゼロちゃん、ちょっと部屋の外出てて」
「了解」
 固い声でドラコに言われ、ゼロは大人しく部屋から出る。きっと、換えのマスクを出して着けるのだろうなというのはゼロにもすぐわかった。
 ドラコが入っていいと言うのでゼロはまた部屋の中に入る。するとそこには、ベッドに腰掛けて俯いているドラコがいた。
 あんな目に遭ったのだ、疵付いて落ち込んでも仕方がない。しかも、ドラコは普段自分のホムンクルスであるゼロにですら顔を見せないように生活している。そんなドラコが、どこの誰ともわからない男に顔を見られたのだ。正直言えば、死ぬと言い出さないだけましなのだ。
 しばらく俯いているドラコに声を掛けられないまま側にいると、ドラコが震える手で鞄の中からスマートフォンを取りだして、珍しく自分からコールをかけた。発信先はペリエだ。きっと、今の心の内を他の人にも聞いてもらって整理したいのだろうなとゼロは思う。数回のコールで、ペリエが出る。
「ドラコおかえりー。今日はお疲れさま」
 そう明るい調子で話し掛けてくるペリエに、ドラコはなにも言わない。ただ息を荒くして、呻き声のようなものを上げている。
「あ、あれ? どうしたの?」
 ドラコの様子がいつもと違うと気づいたのか、ペリエが戸惑った声を出す。ゼロは事情の説明をしたかったけれども、ドラコから説明をしていいという許可を得ていない。だから、先程のことを話すとしたら、きっとドラコからなのだろうとじっと見守る。
 マスクを着けているにもかかわらず、先程のように両手で顔を覆って、ドラコが何度も呻き声を上げる。もしかしたら、激しい怒りと殺意がぶり返してきていて、それを抑え込もうとしているのかもしれない。
「どうしたの? 体調悪いの? ねぇ、ゼロ」
 ペリエがゼロに問いかけたところで、ドラコがゆっくり両手を顔から外す。それから、またあのゼロが聞き慣れていない殺意に満ちた声でこう言った。
「殺したいやつがいるんだけど殺せる?」

 

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