第五章 鼠の山

 なんとか家に帰り着き、背負っていた物を下ろし、手袋を外してイーヴに声を掛ける。
「ただいま帰りました」
「おかえり。ずいぶんとかかっていたじゃあないか。なにか厄介ごとに巻き込まれていたりはしないかい?」
「厄介……といえば厄介ですね」
 街中で見つけた何匹もの鼠を思い出しながら、リンネは鉄でできたアイロンの中に炭を入れて燐寸で火を付ける。それから、熱が回ったら手袋にハンケチを当ててその上からアイロンを当てる。
 その様子を見ていたイーヴが、不思議そうに言った。
「君はその手袋を使ったあとは必ずアイロンをかけるけれど、なんでなのかな」
 その問いに、リンネはふと昔を思い出しながら柔らかい口調で答える。
「病を持っているかも知れない獣に触れた後は、こうやって熱を当てると手袋に着いた病を消し去れると、以前先生に教わったんです」
「なるほど、そうなんだね。
病は触れるとうつるという学説が最近出ているけれど、君の先生は先見の明があったのだね」
 そんな話をしていると、イーヴのお腹がぐぅっと音を立てた。
「あっ、お昼ごはんお待たせしてしまって。
今から作りますね」
 お腹の音を聞いたリンネは、慌ててアイロン掛けを済ませ、アイロンを持って台所へ向かう。
 台所に入り、持っていたアイロンに入っていた炭を窯の中に入れ、窯の側に置いてから壁に掛けてあるエプロンを手早く被る。昨日市場で買って来た野菜の残りを見て、今日は青菜とベーコンとタマネギの炒め物、それからブレッドにセロリとジャガイモ、チーズを乗せて焼いたものを作ろうと早速手を着ける。できればスープも作りたいところだけれど、今日は珈琲で妥協してもらおうと決める。
 炒め物を作っている間に、ブレッドは窯の中でじりじりと加熱される。水を入れたポットではお湯が沸き、傍らで珈琲が蒸らされている。そこから漏れ出るチーズと珈琲の匂いに誘われてか、今日も台所の入り口からイーヴがひょっこりと覗き込んだ。
「そろそろ出来上がるので、持っていくのを手伝ってもらえませんか?」
 リンネが二枚の皿に炒め物を乗せながらそう言うと、イーヴはにこにこと答える。
「もちろん手伝うよ。
ああでも、今焼いてるパンは、大きい方が私のだと嬉しいなぁ」
「ふふふ、わかってますよ。
それではこちらをどうぞ」
 炒め物の乗った皿の上に、さらにチーズごとこんがりと焼けたブレッドを乗せ、若干ブレッドが厚い方をイーヴに手渡す。キッチンの台の開いたスペースで珈琲を漉し器を使ってカップふたつに注ぎ、片方をイーヴに渡し、もう片方はリンネが自分で持って居間へ行った。
 ようやく手を着けたお昼ごはん。今日もイーヴは嬉しそうにチーズを延ばしている。
皿の上のものを食べ終わり、珈琲をゆっくりと飲んでいるときに、イーヴがふと訊ねた。
「そういえば、先程帰ってきたときに、厄介といえば厄介なことに巻き込まれたといっていたけど、具体的に何があったのかな」
 その問いにリンネは溜息をついて答える。
「なんでかわからないんですけど、街中で沢山鼠が死んでるのを見つけたんです。
とりあえず、目に入った範囲で焼けるだけ焼いてきたんですけど、なんか、見つけてないだけでまだまだ沢山鼠の死骸があるような気がして」
「鼠の死骸が沢山か。それは確かに不気味だ」
 リンネがこの街に来る前に、時々こう言うことがあったのかと訊ねると、イーヴはそんな事はないと答える。
「笛吹き男でも来て、どこかから瀕死の鼠を連れてきたとでもいうのかねぇ」
「まさかそんな」
 イーヴの冗談とも取れる言葉に、薄ら怖さを覚える。そんな事はあるはずないのに、笛吹き男がほんとうに災厄を連れてきたのではないかと思ってしまうのだ。
 リンネの沈鬱な表情を見てか、イーヴが珈琲をひとくち飲んで言う。
「もしかしたら、家に蓄えてる穀物を食べた鼠が死んでいるのかもね。うっかりカビを生やしてしまった穀物を食べて」
「ああ、なるほど……」
 それはそれで人間にも影響は出るので気をつけなくてはいけないけれども、全く原因がわからないよりは対処のしようがある。
 とりあえず。と、リンネは空になった食器をまとめて、洗い物をすることにした。

 翌日、リンネがこの日の食料の買い出しに市場へと出かけると、ぞっとするような話が耳に入った。屋台の主人も、買い物客の婦人も、時折話に出すのは色々なところで鼠の死骸を見るという話だ。そして実際、この市場に着くまでの間、物陰だけでなく道の真ん中にまでも鼠の死骸を所々で見掛けた。
 見つけた分だけでも早く焼かなくてはいけない。リンネは手早く買い物を済ませ、家へと走って帰った。
 今回の鼠の駆除は大がかりになりそうだ。革手袋を填め、薪を背負い燐寸をポケットに入れ、今回は空のバケツも用意した。
「どうしたんだい君。そんな装備をして」
「街中で沢山鼠の死骸を見つけたので、焼いてきます」
「あ、ああ、そうなのか」
 まさか昨日の今日でそんなに見つかることが意外なのだろう、イーヴは信じられないという顔をしている。そんなイーヴを置いて、リンネは街中を歩く。空のバケツに何匹もの鼠の死骸を放り込み、いっぱいになれば開けた場所で焼いていく。しかし、それが一回や二回で終わる量ではないことに気がついた。
 これはもう、イーヴを含めた他の医者にも手を借りないと間に合わない。一体何が起こっているのだろうという不安が過ぎる。このままほんとうに、この鼠たちは災厄を運んでくるのだろうか。そんな考えに到る。
 ふと、以前師事していた先生の顔が浮かんだ。こんな時、先生がいれば何かわかったかも知れない。そう思っても先生は今ここにはいない。
 リンネは大きな溜息をついた。

 

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