第十三章 乖離した世界

 この頃は日暮れ時でも仕事が終わらなくなってきた。少しでも陽が出ている間には患者を診て、暗くなってきてからはあちこちの家で出た病死者をあの大きな穴へと運ぶのだ。
 すっかり日も暮れて、これからまた遺体を運ばなくてはと言う所で、リンネはふと窓の外を見た。
 暗い道を、ランタンの光が通り過ぎていく。これは決して鎮魂の灯りではない。ランタンの光を運んでいるのは華やかに着飾った街の人々。裕福な暮らしをしている人々だ。彼らは毎夜行われるオペラの舞台の観客だ。この街に蔓延している黒死病のことをわかっているのかいないのか、それともわかっていて現実から目を逸らしたいのか。街が閉鎖されると決まったあの日から、オペラの公演に足を運ぶ人達は絶えない。
 それを見てリンネは思う。オペラというのは一体どんなものなのだろう。あの時あの公園で聴いた歌のようなものが聴けるのだろうか。ただただ華やかなものだということしか、リンネは知らない。
 思わず外の華やかな人々に目を奪われたけれども、すぐに目の前の患者に向き直る。もはやなにも語ることはないこの患者の体を、運び出さなくてはいけないのだ。手伝いに来てくれている青年と一緒に、患者を担架に乗せる。それから、ベッドの上に石灰を撒き遺体をその家から運び出した。
 その家から出ると、華やかな人々はすぐさまにリンネ達を遠巻きにした。なるべく近くを通らないように通り過ぎ、オペラハウスへと向かっている。
 リンネの向かう先はそれとは反対方向だ。あの野原に、黒死病の犠牲者が沢山葬られたあの野原に向かうのだ。
 リンネに道を教えてくれるのは、空に輝く細い三日月だけ。あの草原に行かずに済むならどれだけ心が落ち着くだろうと何度も考えた。けれども、たとえ心かき乱されたとしても自分の使命を全うしなくてはいけないのだ。それが、行き場を失っていた自分を受け入れてくれたこの街への恩返しになるのだから。
 月に照らされた野原。去年まではこの季節になると青々とした草で覆われて、爽やかな風が吹いていたのに、今では沢山の穴を掘られ不幸な人々を抱え込んでいる。リンネは静かに、大きな穴に近づき担架の上の遺体を放り込んだ。周りをよく見ると、自分と同じように嘴の付いたマスクを被った医者と、その手伝いが何人か、穴に遺体を放り込んでいた。
 今日はここまでだと、他の医者が穴の中に石灰を撒き、軽く土を被せる。この穴に落とされた人々に、救いの為の祈りが上げられるのは、また明日太陽が昇りきった頃だ。

 疲れきった身体で家に帰る。その道中で、もうひとりの医者と合流した。
「リンネ君?」
 話し掛けてきたその医者の声を聞いて、リンネは返事を返す。
「イーヴさんですか?」
「そうだよ。今日もお疲れ様」
「お疲れ様です」
 小声でやりとりをしながら道を歩く。道のどこにもあの華やかな人々はもういなくて、自分とは違う世界で過ごしているのだなと思う。
 家に着き、ふたりは疲れたようにマスクを外し、マントと手袋を脱ぐ。脱いだマントをテーブルの上に広げ、アイロンを取り出す。アイロンの中に炭を入れて燐寸で火を付けて熱する。十分に火が回ってから、熱いアイロンでしっかりと二枚のマントを消毒していった。マントの消毒が終わったら手袋の消毒だ。革が縮んでしまわないように注意を払いながら、確実に当てていく。この作業はリンネの方が慣れているので、まとめてリンネが片付けた。それから、中の薬草を取りだしたマスクと、すっかり消毒したマントをいつもの場所にかけてから、リンネが言う。
「晩ごはん、作りましょうか」
「ああ、お願いするよ」
 朝早く市場で買って来た野菜は、心なしか萎れてしまっている気がする。けれどもそれを気にする余裕はリンネにはなかったし、気にしても他に食べる物はないのだ。
 このところは、昼食をまともに食べる時間もない。だから、朝食と夕食をしっかり食べないと身が持たない。数ヶ月前よりも厚めにブレッドを切り、輪切りにしたトマトをざっくり切って、これも厚めにしたパンチェッタと、チーズを乗せて窯で焼く。少し前までは凝った食事を作っていたけれども、そこまでする気力も奪われていた。
 窯の中からブレッドの焼ける香りと、チーズの香りが漂ってくる。微かに、チーズの溶ける音が聞こえるようになった頃にブレッドを取りだして皿に乗せる。それを居間に持っていてテーブルに乗せた。
 椅子に腰掛けて待っていたイーヴは、心なしかぼんやりとしている。やはり疲れているのだろう。初めて出会った頃はふっくらとしていた彼の頬も、心なしかこけてきているようにも見えた。
「ごはん、食べましょう」
「ああ、待っていたよ」
 リンネが声を掛けると、イーヴははっとしたようにブレッドに向き直る。ふたりで食前の祈りをしてからかぶりつく。調理中はあんなにいい香りだったのに、なぜか香りをあまり感じない。噛みしめても、味をあまり感じなかった。
 イーヴが溜息をついて口を開く。
「おいしいかい?」
 リンネは俯いて答える。
「それが、あまり味を感じなくて」
「そうか。私もなんだよ」
 少しの間、沈黙が降りる。それから、イーヴが頭を振って言う。
「私たちは疲れすぎている。
早く寝よう。明日もまた戦いだ」
「はい」
 短いやりとりをして、ふたりはブレッドを口に詰め込む。少しでも体力を回復させないといけないのだ。
 食事を済ませ、ふたりは疲れた身体を引きずって寝室に向かった。
 もう夜中だった。

 

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