第十四章 大輪の花が枯れる

 リンネはその音で起きた。眠りについてどれだけ経ったのだろう、きっとそんなには経っていない、窓から外を見るとまだ夜明け前だった。
 家の玄関を叩く音に、リンネは急いで玄関へ向かう。イーヴも同じことを考えていたようだった。
「何事でしょう?」
「聞いてみないとわからんよ」
 ふたりは玄関前に立ち、鍵を開けて扉を開ける。すると、そこには息を切らせている男性が立っていた。
「どうしたんだい、急患かな?」
 イーヴが落ち着かせるようにそう訊ねると、男性は何度も頷いてからこう言った。
「オペラの一座のものなのですが、うちの歌手が黒死病にかかったみたいで、診ていただきたいのです」
 その言葉に対する反応は早かった。リンネはすぐさまにふたつのマスクの嘴に薬草を詰め込みイーヴに渡す。そのままふたりはマスクとマントを被って男性に言葉を返す。
「容態は?」
「高熱が出て、首のあたりが腫れていて……」
 イーヴがやりとりをしている間に、リンネは調剤室から黒死病の薬を用意する。その時ふと、他の薬が目に入った。いつもならあまり使わないその薬を、なぜか持っていかなくてはいけない気がして、その薬もマントの内ポケットの中へと詰め込んだ。
 玄関に戻ると、もう出かける頃合いだったようだ。外へ出て扉に鍵をかける。
「いつ頃から様子が変わりましたか?」
 男性に案内されている道中、リンネがそう訊ねる。すると、その患者の歌手はカーテンコールの時に、舞台の上で倒れたのだという。
 歌手が舞台の上で倒れるだなんて、運命の一言では片付けられない気がした。どうにも収まりの悪い気持ちを抱えながら男性にオペラの一座が寝泊まりしている宿舎へと案内される。辿り着いたのは木造三階建てのそれなりに大きい建物だ。今までこの建物は一体何だったのか疑問に思っていたけれども、そう言うことだったのかと納得する。
 男性のあとについて建物の中へ入り、暗い廊下を歩く。ここに寝泊まりする他の人々は、黒死病の患者が出たことを知っているのだろうか。あまりにも、そこは静かで不気味だった。
 男性がひとつの扉を開く。その部屋の中ではランタンが灯され、奥のベッドで患者が寝ているようだった。
 リンネとイーヴは顔を見合わせて頷いてから、患者に近寄る。イーヴが容態を診るというので、部屋にあったランタンを使わせてもらい、リンネが患者の側を照らす。すると、その患者の顔は見覚えの有るものだった。
 病気による痛みのためか憔悴しているけれども、今目の前に横たわっている彼は、あの春の日に、公園で小鳥のように歌っていたあの青年なのだ。
 リンネが衝撃を受けている傍らで、イーヴが診察を終わらせる。やはり黒死病のようだった。目の前の彼がリンネ達の方を見る。起きているならと、薬を少しずつ彼に与えた。
 それからしばらくの間様子を見たけれども、やはり容態が変わることはなかった。
「ねぇ、痛くて苦しいよ……」
 目の前の彼が涙を零してそう呟いた。その様子を見たここまで案内してきた男性が、イーヴの方を見る。それを察したイーヴはリンネの肩を叩き、手で入り口の方を指さした。
 男性とイーヴと共に、リンネは廊下に出る。
「助かる見込みはないでしょう」
 イーヴが静かにそう言うと、男性はぼろぼろと涙を零してこう言った。
「それなら、いっその事あいつを殺してください」
 それを聞いてリンネは驚きを隠せない。イーヴも驚いているようだった。けれどもふたりの表情はマスクで覆われていて男性にはわからない。男性は泣きながらこう続けた。
「あいつはオペラ歌手の中でも花形なんです。音楽院の中でも最も輝かしい、英雄と言っても遜色ない、立派な……
だから、もがき苦しんで無様な死に様を晒すことなんてことはあってはいけないんです。
あいつは気高く死んで崇拝されるべきなんだ……」
 それは、男性の勝手な言い分なのかも知れない。けれども、人々の生きるための士気を損なわないようにするには妥当な判断とも思えた。しかし、殺すと言ってもどの様にするのか。今この場に毒薬など持って来ていない。イーヴはきっとそう思っているのだろう。
「だが……しかし……うむ……」
 難しそうな声を出すイーヴに、リンネがマントの中から薬瓶をひとつ取りだしてこう言った。
「イーヴさん、アヘンチンキを持って来ています」
 その言葉に、イーヴが素早く振り向く。
「どうして、持ってこようと思ったんだい?」
 戸惑うイーヴに、リンネは淡々と答える。
「なぜかはわからないんです。
ただ、調剤室に入って、なぜかこれを持ってこなくてはいけないような気がして、それで」
 アヘンチンキの瓶を受け取ったイーヴはしばしそれを見つめてから男性に言った。
「わかりました。これを患者に投与しましょう」
 男性が頷く。確認するようにイーヴはもう一度言った。
「ほんとうに、これでもうあの方はおしまいです。覚悟はできていますね?」
「はい、もちろんです」
 涙を流す男性を見て、イーヴが頷く。そしてまた、三人は部屋の中へと入る。イーヴが患者の側に跪き、リンネがランタンで照らす。目の前の彼はこれから自分がどうなるのかを全く知らない。イーヴがアヘンチンキの蓋を開けて彼に言った。
「これを飲めば楽になれるよ」
 それを聞いて、彼の表情が安らいだ。イーヴが少しずつアヘンチンキを彼に飲ませていく。そうしてすっかり全部飲ませてしまうと、彼は穏やかな表情で呟いた。
「これが治ったら、ウィスタリアに会いに行くんだ……」
それは誰に聴かせる物かはわからない。けれども安心したように彼は眠りについた。
 アヘンチンキは麻酔だ。痛みを取り除き、そのまま安らかに死へと導く薬なのだ。次第に彼の胸の動きが小さくなっていく。そして動きが止まりしばらくして、瞼を開かせて瞳を見ると、動くことはなかった。
 英雄にも等しい歌手は、安らかに死を迎えたのだ。

 

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