第十九章 終わりのはじまり

 黒死病の薬が作れなくなり、アヘンチンキでの緩和をはじめてからもうだいぶ経った。決定的な治療方もないまま日々は過ぎていて、発症者数が減ってきているとは言え、黒死病に罹ってしまったらそこまでだと、街の人はもちろん医者も皆そう思っていた。そんな中、ひとりの医者が息を切らせて街中を走り回り、他の医者ひとりひとりに声を掛けて回っていた。当然リンネの所にも来たわけなのだが、まさか全員を探して駆け回っているとは思っていなかったので、自分にだけ急な用があるのかと思いこう訊ねた。
「どうしました? 僕を呼んでいる患者さんがいるとか」
 すると、医者は息を切らせながら、けれども明るい声色でこう答えた。
「黒死病を乗り切った患者が出た!」
「えっ?」
 一瞬、なにを言いたいのかがわからなかった。
「えっ、乗り切った。というのは……」
「黒死病が治った患者が出たんだ!」
 それは衝撃的な知らせだった。黒死病を克服した患者がいる。これは明らかに吉報なのだが、あまりにも想定外の事態で上手く飲み込めない。リンネに報告をした医者は、他の医者にも伝えてくると言ってその場をすぐに離れてしまった。それは街頭での出来事で、医者の大きな声を聞いた道行く人、近所の家の人がリンネの方を見ている。そして、すぐに目を逸らしてこそこそとなにかを話しはじめた。
 黒死病を克服した患者が出たという話は、すぐさまにでも街中に広がるだろう。良い知らせなのだから、街の人々が希望を持つことの助けになるだろう。けれども、この噂がすぐに広まってしまっていいものかどうか、リンネにはわからなかった。

 初めての黒死病からの生還者が出たあの日以来、ぽつりぽつりと黒死病を乗り切る、もはや完治してしまうと言っても差し支えのない患者が現れ始めた。その一方で、いまだ黒死病で命を落とす人も沢山いる。助かる人と助からない人、その違いがどうにもわからない。教会へ患者数や病死者数、それに加えて治癒した患者の数の記録の確認をしにきた他の医者から話を聞いても、誰もその違いはわからないようだった。
 黒死病から生還する患者が出たという話は、記録を付けている教会の聖職者達や、その手伝いをしている人々に、久しぶりに笑顔になることを赦したように見える。沢山の死者が出る中でも、希望が見えてきたのだ。
 その希望は本物なのか、まやかしなのか、それはまだわからない。わからないけれども、リンネを含めた医者達は、なんとしてでも黒死病を殲滅して、希望を本物にして街の人々に分け与えなくてはいけないのだ。

 それは確かに希望だった。けれどもその希望は医者達を知らず知らずのうちに追い詰めているようにも感じられた。黒死病を克服した患者が出たという噂はもはや街中に染み渡っていて、生還することができなかった患者の家族に、なぜうちの人は、うちの子は、うちの親は、うちの妻は、夫は、死んでしまったのだと責められることが増えてきたのだ。
 こういったことは、以前は全く無かったわけではない。患者家族から責められることは以前からあったけれども、黒死病のあまりのすさまじさに、罹った時点でほとんどの人は諦めていた。だから、責められる頻度自体はごくごく少なかった。けれどもここに来て、助かる見込みがあると知ってしまった患者家族は、なぜ自分の家族がその恩恵にあずかれないのかと嘆き、医者を責め立てるのだ。リンネも例外ではなかった。むしろ、小柄であるから、逆らえないだろうと思うのか余計に患者家族の罵声を浴びるのだ。
 もう少し頑張れば、この街から黒死病は消える。なのに、そのもう少しがひどくつらいもののように思えて仕方がない。往診先の患者が亡くなり、家族からの罵声を受け、あの地獄の釜に死者を放り込んだあと、満月が照らす街中をなんとか歩いて家へと向かう。家に着き、玄関を開けるとマスクに詰めた薬草の香りに混じってチーズの匂いがした。どうやらイーヴが一足先に帰ってきていたようだ。
「おかえり、リンネ君」
「イーヴさん、ただいま」
 中に入るとイーヴはすっかりマスクもマントも外し、台所から顔を覗かせていた。リンネもマスクとマントを脱いで、いつものようにアイロンをかける。イーヴが気を利かせておいてくれたのだろうか、アイロンの中の炭はまだ熱く、すぐに使える状態になっていた。
「ずいぶんと、疲れた顔をしているね」
 アイロンをかけ終わったマントをマスクと一緒に壁に掛けていると、イーヴが溜息をついた。溶けたチーズが乗ったブレッドを皿に乗せて持ってきてくれていたので、リンネはそれを受け取っていつもの席に着く。イーヴも座った所で、食前の祈りをしてまだ熱いブレッドにかぶりつく。溶けたチーズが口の中を焼く。痛くて不快なはずなのに、なぜかその感覚を求めて次から次へとブレッドを頬張った。
「イーヴさんも疲れてるんじゃないですか?」
 ブレッドをあらかた食べたリンネはようやく言葉を返す。口の中はすっかり火傷していて、上顎の皮が剥がれているけれども、その痛みはなぜか心を落ち着かせてくれた。
「まぁ、疲れてはいるけれどね」
 リンネの状態に気づいていない様子のイーヴが深く溜息をつく。やはり彼も疲れているのだ。疲れを滲ませたまま、イーヴが訊ねる。
「君の見立てを訊きたい。黒死病はこのまま収まると思うかな?」
 その問いに、リンネは迷わず答える。
「収まります。いえ、収めるんです。僕達が」
 それを聞いて、イーヴは深く頷く。それから、すっと手を伸ばしてきてリンネの頭を撫でながらこう言った。
「では、その時その瞬間まで、君も死なないでおくれよ」
「……はい」
 黒死病と闘ってきて、自分もこの病で死ぬかも知れないと思ったことはある。けれども自分から死にたいと思ったことはなかったはずだ。でも、どうなのだろう。なぜか生き残ると断言できない気がした。

 

†next?†