第十八章 天命のもとで

 鼠がこの街からほぼ消え去ったという確認が取れた翌日の朝、医者達は教会に集まって、新しい発症者と病死者の数の確認をしていた。その中で、鼠の駆除が終わったという話をリンネが全員に伝えた。一番年嵩の医者が言う。
「これで終わりが見えてきたしるしなら良いのだけれど」
 他の医者も口を開く。
「確かに、ここでまとめている記録を見る限りでも発症者の数は減ってきている。
鼠が黒死病を運んでいるという説が真実なのなら、これは良い傾向でしょう」
 それから、医者達がリンネの方を向いた。もういい加減、マスクとマントで顔と体を覆っていても、誰が誰だか判別できるようになってしまった。特にリンネは飛び抜けて背が低いので、他の医者からすればわかりやすいだろう。
 こんな区別が付くようになる前に、黒死病が立ち去ってくれたなら、それに超したことはなかったのだけれど。そうは思うけれども、今は別の希望が見えてきているのだ。もう一息、医者達は頑張りを見せなくてはならない。
 鼠の話をする医者達の側で、聖職者達も集まって話をしていた。思わずそちらに耳を傾けると、こんな話がリンネの耳に入った。
「……の修道士が、不死の薬を探せという命を受けて、東へ旅立ったらしい」
 どこの街かというのは聞き取れなかったけれども、不死の薬、というのは嫌にはっきりと聞き取れた。なぜ修道士様が不死の薬を求める声に応えたのかはわからないけれども、その話は他人事のように思えなかった。
「リンネ君、どうしたんだい?」
「あ、いえ。なんでもないです」
 イーヴに声を掛けられ、咄嗟に医者達の話の方へ意識を戻す。黒死病の薬が底を尽き、アヘンチンキを処方しているが患者の経過がどうだとか、やはり他の医者も疑問に思ったのだろう。あの黒死病の薬はほんとうに効果があったのかなかったのか。どうやったらそれを調べられたのか。そんな話をしている。
 リンネもその会話に加わりながら、どこか心は遠くへと行っていた。かつて師事したあの先生のことが浮かんできて離れないのだ。
 先生は、医者であると同時に錬金術師だった。先生がほんとうに求めていた物がなんなのか、それはリンネにはわからない。けれども、土塊を黄金に変え不老不死を得ることさえ可能と言われる賢者の石を作るようパトロンから言われていたし、賢者の石があるのなら、あまねく人々に幸福が与えられるのではないかと、リンネは無邪気に信じていたのだ。先生と過ごした数年間。その中でリンネは薬草の知識を身につけ、先生と一緒に村の人の病を診ることで薬師としての経験も積んだのだ。そんな風にお世話になった先生と共に追い求めた賢者の石、もしくはそれに並ぶものを探しに旅立った人がいるというのは、妙に心をざわつかせた。なぜ不死の薬を求めて彼らを旅立たせたのか。その旅立ちはこの街に蔓延る黒死病と関係があるのか。ともすればこの思考に没頭してしまいそうだった。
 書類をまとめる手を止めている聖職者達に、神父様が厳しい声で言う。
「あなた方、そのような夢物語を追うよりも、今はやるべき事があるでしょう」
 一喝された聖職者達は、気まずそうに頭を下げ書類の整理を再開する。昨夜までの発症者数、死亡者数をまとめる仕事に戻った。
 医者達も、そろそろ往診に出かけなくてはいけない時間だと言うことで教会を後にする。リンネは教会の扉をくぐっても、不死の薬のことと先生のことが頭から離れなかった。

 教会を出たあと、何人もの患者を往診した。まだ生きている患者はいるけれども、やはりあの野原の、地獄の釜のように口を開けた穴へと運ばなくてはいけない者もいまだ沢山いた。
 何人もの遺体を運びながら考える。不死の薬があったとして、ほんとうに人々を救えるのか。そこに幸せはあるのか。死ぬことは悲しいことだけれども、死ぬこともできずに苦しむのはつらいことではないのか。そう、仮に不死になったとして、黒死病のような疫病にかかったときに治るとも限らないのだ。治ることもなく、死ぬこともなく、ただ延々と、永遠に苦しむことになるだけではないのか。そんな事が頭から離れない。
 担架で運んできた遺体を穴の中へ放り込む。夏はとっくに盛りを過ぎた。それでも穴の中から漂う腐臭や周りにたかる蟲達は不快だった。
 どこからともなく鐘の音が聞こえる。昼を告げる教会の鐘だ。この鐘が鳴ったということは。そう思ってリンネは周りを見渡す。ところどころ盛り上がった部分のある広い草原。この街が閉鎖されてすぐの頃にできた墓の上には、気がつけばぼうぼうと草が生えていて、僅かに土が盛り上がっている事に気づかなければ、その下に黒死病に殺された不幸な人々がいるとはわからないだろう。その草原の中に、神父様が立っていた。
 神父様は胸の前で十字を切り、左手で持った聖書を開いて、この野原の土の下で眠る死者達のために祈っている。その朗々とした声は、むしろ死者よりも死者をここに運び、墓穴へと放り込む生きた人々の心を救っているようにも感じた、
 聖書を読み上げ、祈りを終えた神父様がリンネの元へ歩いてくる。
「お医者様、これからまた往診でしょう。
街まで一緒に行きませんか」
「ええ、喜んで」
 それは予想外の申し出だったけれども、神父様も何か思うところがあるのだろう。一緒にしばらく歩く事にした。草原を出るまで、ふたりとも黙り込んでいた。けれども、街の人が住む家が並ぶ道に出ると、神父様がぽつりと言った。
「神様の元へ行った人々ひとりひとりのために祈れないのがこんなにつらいことだとは知りませんでした。
黒死病がこの街に来るまでは」
「……そうですね」
「私の祈りは、神様の元へ届いているのでしょうか。誰かの心を安らかにできているのでしょうか」
「それは」
「それでは、失礼します」
 自分は救われている。そう言おうとした瞬間、神父様は分かれ道でリンネとは違う方向へ歩いて行ってしまった。そちらに教会があるのだ。
 それはまるで、天命のようだった。

 

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