紙の守出版では基本的に残業はやらない方針なのですが、どうしても残業をせざるを得ないことがあります。
頻繁に有ることでは無いのですが、偶にもの凄く仕事が重なってしまって、 業務時間内で片付けられなくなったりするんですよね。
勿論、残業代は支払われていますし、余裕の有る時期は有休も取りやすいので、 ブラック企業というわけでは無いと思っています。
ただ、給料が支払われてたり有休が取りやすいとは言っても、勤めているのが八百万神ばかりなので、 本当にこのシステムは必要なのか。と言う疑問を抱くことはありますが。
お給料に関して言えば、我々もアパートなどを借りて生活しているので、出ないと困ると言えば困りますけれどね。
そんな残業が珍しい職場で、今日は残業です。
そんな中、電話の受付時間も過ぎた頃に、電話が掛かって来ました。
受付時間外に取引先からの電話は取るなと言われているので、発信元が取引先で無いことを確認した上で、 電話に応えます。
「はい、紙の守出版の美言です」
「やぁ、美言さん。
蓮田岩守ですが、少しお時間宜しいですか?」
「そうですね、今ちょっと仕事はしてますが、少しなら」
電話をかけてきたのは、蓮田さんだったようです。今日は特に何かに怯えているというわけでも無いですし、 どんな用件でしょうかね。
「それじゃあお言葉に甘えて。
実はね、今度東京観光をしようと思ったのだけれど、一人で観光するのが不安なんだよ」
「観光、ですか」
「それで、誰か案内してくれたらなと思って電話をしたのだけれど」
「観光案内ですか」
いつも鉱山に引きこもりっぱなしの蓮田さんが東京観光をしようだなんて、どんな心境の変化があったのでしょうか。
もしかして、最近インターネットが繋がって色々目にする機会が増えたから、単純に興味が湧いたのでしょうか。
取り敢えず、いつこちらに来るのかがわからないと、対応のしようが無いですね。
「いつ頃東京にいらっしゃる予定ですか?」
「今月か来月かって思って居るのだけれど、そちらの都合が付かないかな?」
「そうですね、少なくとも今月はみんな忙しいかと思います」
そんな話を蓮田さんとしていたら、これから休憩に行くと言った様子の語主様に声を掛けられました。
「どうした?
仕事の電話は受付時間外に取るなって言ったろ?」
「いえ、蓮田さんが今度東京観光をしたいと言って電話をかけてきたんです」
「東京観光?」
『蓮田さんが東京観光』と聞いて、語主様も流石に驚いています。
そうですよね。蓮田さんと語主様は結構親しいのですが、 それでなおのこと引きこもりがちだって言う印象が着いていますものね。
それはそれとして、案内をどうするかを訊かないと。
「はい。
誰か案内できますかね?」
「ん~……
ちょっと替われる?」
「はい。
あ、蓮田さん、今ちょっと語主様に替わりますね」
もしかして、語主様が自ら観光案内をするというのでしょうか。
でも、語主様も忙しいですよね……
「うん。そっか。
ちょっと今月は忙しくて手が回せないから、来月入ってからなら、案内して貰えそうな人にちょっと訊いてみるよ。
それで了承取れればそれでいいし」
ん? 案内して貰えそうな人? 語主様は心当たりが有るのでしょうか。
この言い方だと、自分で案内するとは言っていないような気がするのですが。
「うん。そうそう。
こっちから上手く説明出来るかわかんないけど、まぁ、なんとかするわ」
説明、と言う事は、何処かに依頼する当てが有るのでしょう。
もしかして、案内を外部委託するつもりでしょうか?
専門のガイドさんを雇うのか、それとも違うのか。その辺りの判断は出来ませんが、 これは語主様に任せた方が良いのでしょうね。
語主様が通話を切った後、暫く社内はキーボードを叩く音だけが響いていました。
窓の外を見ると、もう日が暮れて街灯が点っています。
私達が東京に来て、もうどれほど経ったでしょうか。紙の守出版を立ち上げた事自体は、割と最近です。
ですが、語主様に付いて物語を管理するために、出雲から京都へ、京都から鎌倉へ、 鎌倉から……と、人々の動きと共に、渡り歩いてきました。
私達は、ずっと『都』と呼ばれるところに居るのですが、同じ所に留まり、ぢっと動かず、 役割を果たしている神が圧倒的に多いです。
現代日本国は、昔と比べて交通の便も良くなっているので、もし良かったら他の神も、 仕事の息抜きに色々なところへ見学に行って欲しいなと、そう思いました。
私も、ずっと東京に居ないで、神在月に出雲に行く以外にも旅行とか行ってみたいですね。
「北海道とか、沖縄とか、楽しそうだなぁ」
八百万神の管轄外の北海道と沖縄は、私の憧れの地です。
きっと現地では、古くから祀られている他の神が居るのでしょう。
旅先での出会いを考えると、なんだかワクワクしますね。