今日も朝が来た。いつも通りに家の裏にある畑の世話をして、収穫したハーブを蒸留器にかけて、朝食を食べる。
毎朝夜明け前から起きてやっている朝のルーティン。これをこなしている小柄な男性は、農家でも香油屋でもない。この村に住むただひとりの医者であり錬金術師だ。
彼は朝食を終え、蒸留器から香油と蒸留水が採れたのを確認し、それぞれ小さな瓶や大きな瓶に詰め、香油は香油を入れている箱に、蒸留水はいつも村人を診ている診察室へと運び込む。
診察室ですこし冷めたコーヒーを飲んでいると、ドアを叩く音がした。
「ミカエル先生、そろそろ診察ははじまってますかね?」
しわがれたその声に、ミカエルと呼ばれた彼は大きめの声で返す。
「はい、開いてますのでどうぞお入り下さい」
そうして入ってきたのはひとりの老婆。このところ腰が痛いとのことで、毎日のようにミカエルのところへと通ってきている。
老婆を診察台の上に寝かせ、腰や背中を気持ち強めに指で押したりもみほぐしたりしていく。こうすると、しばらくの間だけとはいえ腰が楽になるようだった。
「先生、今日もありがとうございます」
「いえ、これで少しでも楽になるのでしたらいつでもいらしてください」
ミカエルに診察料を渡した老婆が診察室から出ると、すぐに次の患者が入ってきた。
症状を訴えたり、ただ話をしに来ただけだったりの患者の相手をしてお昼時。人が途切れたので今日の診察はここまでにして、ミカエルは村の中の農家に野菜を分けて貰うために家を出た。
季節は春。気候がいいこの時期においしい野菜も色々あるだろうと思いながら、農家へと向かう。
その途中、村の広場を通りかかると村人達が騒いでいた。
なにがあったのだろうとようすを見に行くと、大勢の村人達が歌いながら踊っていた。
こんな時期にこんなことをする祭りなんてあっただろうかと思ったけれども、もしかしたら祝いごとがあったのかもしれない。そうであるならばいいことだと、ミカエルはすこしだけ足を止める。
にこやかにステップを踏んでいた村人が声を掛ける。
「やあ先生。先生も一緒にどうです?」
手を差し伸べてそう言う村人に、ミカエルは困ったようにはにかむ。
「お誘いはうれしいけれどね、僕は踊るのが苦手なんだ。
だから、今回は見て楽しむだけにさせてもらうよ」
そう返すと、村人は不服そうな顔もせず、一礼をして踊りながら歌い出す。
しばらくの間踊る村人達を見た後、ミカエルは農家で旬の野菜を分けて貰った。
野菜を分けて貰った後家に帰り、ミカエルは家の中にある実験室で午後のルーティンをこなす。
畑で採れたハーブを焼いて炭にしたり、液体を入れたフラスコを火にかけて、そのようすを観察したりしている。これは、錬金術の研究の一環だ。
ミカエルは街に住むパトロンからの支援を受けて、この村で錬金術の研究をしている。そのせいだろうか、一度は魔女として告発され、簡素な裁判、というよりは拷問にかけられたこともあるけれど、その時にミカエルの無罪を告げる天使が現れ、なんとか疑惑を払うことができたのだ。
その時の拷問で、ミカエルは左手に大きな火傷を負った。その痕はいまだに残っている。
火にかけたフラスコの中の液体が泡立つのを見て、ミカエルは無意識で左手をさする。火傷が治った後、こうするのが癖になってしまったのだ。
錬金術の研究をして日が暮れる。夕飯を作ってひとりで食べた後、ふと窓から空を見ると、きれいな月が浮かんでいた。
それに惹かれて、ミカエルは夜の散歩に出る。ランタンを持って、すこしだけ厚着をして外を歩くと、春とはいえ夜はまだ冷えるようだった。
目的地もなく村の中を歩き回る。ほとんどの村人は、もう眠る時間のようで周りは静かだ。
ぶらぶらと歩いているうちに、街の広場に出る。昼間、村人達が踊ってはしゃいでいたあの広場だ。
その広場から、足音がする。なにかと思って目を凝らすと、まだ踊っている村人がひとりいた。地面を踏みならし、腕を振って踊る村人。それを見てミカエルは、昼間の余韻にまだ浸りたいほど楽しかったのかと思ったようだ。
あの村人も、気が済んだら家に帰るだろうと判断したミカエルは夜の散歩を続ける。
ふと月を見上げると、月に黒い雲がかかった。
翌日、いつものように朝のルーティンをこなし、何人かの村人を診察する。その時にミカエルは村人にこう訊ねた。
「そういえば、昨日は広場でみんな踊っていたけれど、なにか祝いごとでもあったのかい?」
すると村人はこう答える。
「特に何があったって聞かないですけどね。
でもまあ、たまにははしゃぐのもいいじゃないですか」
「ふふふ、そうだね」
何人かの村人に同じことを訊ねたけれども、みな祝いごとに心当たりはないようだった。
すこしだけ不思議に思いながら診察を終え、ミカエルはハーブを蒸留した蒸留水を持って家を出る。この蒸留水を買いたいという村人のところへと届けるためだ。
蒸留水を無事に手渡し、すこし散歩がてらに村の中を歩く。すると、また広場が賑やかなことに気がついた。
広場に行くと、今日も村人達が集まって、歌って踊っている。
昨日だけのことならば、たまにはしゃぎたいだけなのだろうという気がするけれども、二日続けてとなるとなにかがあるはずと、ミカエルは違和感を覚えた。
ミカエルは村人に訊ねる。
「やあ、昨日も楽しそうだったけれど、今日もかい?
なにかお祝いでもあったのかな?」
すると、歌いながら踊っていた村人がこう答える。
「なにがあったのかはわからないんですがね、踊ってるやつがいたんでせっかくだから俺らも混ざろうってこうなりましたよ」
それを聞いて、ミカエルは踊っている村人の顔をひとりずつ見る。昨日も踊っていた村人は何人かいるけれども、その中でひとりだけ楽しそうな顔をしていない踊る村人がいることに気がついた。
あの村人は踊っているのではなく、踊らされているのではないかとミカエルが思ったその瞬間、その村人が倒れた。
「なんだ、転んだか!」
他の村人達が笑い声を上げる中、倒れた村人は地面の上でばたばたと手足を動かし続ける。
これは異変だ。そう直感したミカエルは、倒れた村人の足の裏を見る。靴も擦り切れていて、靴を脱がせると足の裏が擦れてところどころ皮膚が剥けている。
ミカエルの脳裏に、昨夜ひとりで踊り続けていた村人の姿が浮かぶ。この村人は、もしかしたら昨日の昼間から踊り続けていたのかもしれない。
「だれか、この人を運ぶのを手伝っておくれ!」
ミカエルは声を上げて村人の協力を仰ぐ。何人かの村人が不思議そうな顔をしてミカエルを見て、ひとりの村人がミカエルと一緒に倒れた村人をその家へと運び込んだ。
倒れた村人は、まだばたばたと動き続けている。このままではベッドに寝かせてもすぐに落ちてしまうだろうと、村人の家族の手を借りて、暴れる村人をベッドに縛り付けた。
「先生、この人は一体どうしたんでしょう?」
不安そうにそう訊ねてくる村人の妻に、ミカエルは難しい顔をして返す。
「それはまだわからない。
ただ、足の裏がすりむけているので、後ほど軟膏を作って持ってくるよ」
ミカエルは急いで村人の家を出てもう一度広場に向かう。嫌な予感が拭えないのだ。
広場について、踊っている村人達にミカエルは大声で言う。
「お楽しみのところ済まないけれど、すこし踊るのをやめてくれないかな」
すると数人の村人は動きを止めて不思議そうにミカエルを見たけれども、数人の村人が踊り続けていた。
「先生が辞めろって言ってるだろう」
そう言って村人達は笑うけれども、ミカエルは笑うことができなかった。
家に帰ったミカエルは、すぐにペンを取って手紙を書いた。村で奇病が流行りはじめているかもしれないということをパトロンに伝えるためだ。
伝書鳩に手紙を持たせ、飛ばす。それから、軟膏を作ってもう一度広場に行くと、観衆がいない中で踊り続ける村人がいて、彼らの表情は苦しんでいるようだった。