第七章 ベジタブルスイーツ

 会社から帰ってきて、荷物を置いてすぐさまにトレーニングウェアに着替え、スマートフォンとお財布、家の鍵を入れ、ウエストポーチを腰に巻いて家を出る。なんとか日課になったウォーキングの途中、大きな道路の向こう側、横断歩道のすぐ側にある白い壁のパティスリーに目を留める。
 前回あのパティスリーでケーキを食べてから、ゆうに一ヶ月は経っている。そろそろ今月のご褒美を自分にあげてもいい頃だ。
 ウォーキングをはじめた初日に見つけたあのパティスリーには、あの日心に決めたように、月に一回程度の頻度で入っている。あのお店のケーキはとてもおいしくて、それを楽しみにウォーキングだけでなく、普段のお菓子のつまみ食いの我慢も頑張ってできるようになった。おかげさまで、ゆっくりとではあるけれども体重も減り始めている。
 青信号になったので横断歩道を渡り、パティスリーのドアに手を掛ける。中に入ると、もうだいぶ馴染んだほんのり甘い香りが鼻をくすぐった。
 店員さんのいらっしゃいませを聞いてから、今日はなにを食べようかとショーケースの中を見る。オレンジとキャラメルのタルトに、チーズケーキ、タルトタタン、ショートケーキ、他にも何種類かおいしそうなケーキが並んでいて、ふとひとつのケーキに目が留まった。そのケーキはこんがり焼けたタルトのカップの中に、緑色のムースのようなものが入ったものだ。抹茶のタルトだろうかと思って値札を見ると、そこにはいつものアレルギー表示と、『ほうれん草のタルト』と書かれている。
 ほうれん草? なんでこんなところに野菜の名前が? そう疑問に思ったけれども、不思議なことにそのほうれん草のタルトは、不味そうに見えるどころかとてもおいしそうに見えた。
 これは絶対に、持ち帰りではなくここで食べていきたい。そう思って奥にある客席の方に目をやる。どうやら一番手前側の席が空いてるようなので、そそくさとその席に座る。それから、メニューを開いてほうれん草のタルトが載っているのを確認する。アレルギー表示を詳しく見ていくと、小麦、卵、乳製品など、これはもはや成分表では? と思ってしまうほどに細かく記載がある。
 でも、乳製品ってどこに使っているんだろう。見た感じクリームを使っているようにも見えないし、タルトを焼くときにバターを使ってるかもしれないから、そのことだろうか。それとも、ムースを作るのに乳製品を使っているのだろうか。乳製品を具体的にどう使っているのか、ちょっと気になるなぁ。
 そんな事が頭を掠めたけど、とにかく、今日はこのタルトを食べるのだと決意して、水とお手拭きを持って来てくれた店員さんに注文を伝える。ほうれん草のタルトはもちろんとして、飲み物はいつも通り温かいルイボスティーだ。
 注文を取った店員さんが一礼をして戻っていったあと、お手拭きで手を拭きながら、ほうれん草のタルトはどんな味なのだろうと考える。ほうれん草がどんな風にムースになっているかというのも気になるし、もう野菜がケーキになっているというだけでドキドキするし、味の想像ができない。きっと、このタルトを食べることは、私にとって初めての体験になるはずだ。
 メニューに載っているほうれん草のタルトのアレルギー表示を何度も読み返しながら、運ばれてくるのを待つ。すると少し経って、店員さんがルイボスティーとほうれん草のタルトを持ってきてテーブルに置く。ルイボスティーのほのかに甘い香りが漂った。
 そして小さな白いお皿の上に乗った、緑色のシンプルなタルト。初めての体験が今、目の前にあるのだ。こんな経験は、大人になった今滅多に出来ない。そう思うと少し緊張してきたけれども、この店のケーキがおいしくないわけはない。食べても大丈夫と自分に言い聞かせ深く息を吸って吐く。
 添えられていたフォークを手に取り、いただきますをして、小さめに取ったひとくち分を口に運ぶ。すると、香ばしいタルト生地の香りと、口の中で溶けるムースの食感、それにバナナの甘味とヨーグルトの酸味が混ざり合った。
 すごく美味しい! ムースから感じられるハーブのような香りと、微かに残ったほうれん草の匂いが喧嘩せずに同居しているし、少しだけ癖のあるほうれん草の渋味がバナナの甘味とヨーグルトの酸味を引き立ててる。すごく甘いタルトかと思ったけれども、甘すぎずにさっぱりしていて何個でも食べられそうだ。
 しかも、野菜のケーキとなればダイエット中でも罪悪感少なく食べられる。最高ではないだろうか。
 時々ルイボスティーで口の中をリセットして、少しずつゆっくりとタルトを食べていく。このおいしいタルトの味を、少しでも長く楽しみたかった。追加で注文すればもっと楽しめるのはわかっているけれども、今はダイエット中だし、そんな無尽蔵に食べられるほど懐も温かくはない。ぐっと我慢して、目の前のタルトを少しずつ味わうのだ。
 そう思いながら少しずつ食べていたとはいえ、いずれは食べきってしまうもの。タルトを食べ終わって、少しぬるくなったルイボスティーを飲みながらぼんやりと考える。これから、このお店のメニューには、もっと野菜のケーキも増えていくのだろうか。ショーケースの大きさに制限があるから、日替わりメニューか、季節限定か、そういう形にはなるだろうけれども、これから野菜のケーキが増えるなら、もっと食べてみたいと思った。
 そうやってこの店に対する想像や期待を膨らませていると、このパティスリーに来る楽しみも増えるなとわくわくする。体重は増えたら困るけれど、楽しみはいくらでも増えた方がいいのだ。
 タルトの味を思い出して余韻に浸りながら、ウォーキングで疲れた足をしばらく休める。それから、ウォーキングの最後には晩ごはんの材料を買って帰らないといけないし。ということで、伝票を持って席を立つ。いつも通りにレジに向かって会計を済ませると、レジの横に可愛らしい折りチラシがあることに気がついた。
 そういえば、今までここに何かあるなとは思っていたけれど、まじまじと見たことはなかった。思わずチラシを手に取ると、店員さんがこう言った。
「そちら、当店のオーダーのご案内になっております。よろしければお持ちください」
「そうなんですね、ありがとうございます」
 早速、手に取ったチラシを開いて中を見る。すると、そこにはケーキのオーダーはもちろん、それ以外のお菓子も相談次第で作ってくれるということが書かれていた。
 ケーキ以外も作ってくれるのか。すぐに思いついたのは、自分の誕生日用に小さめのホールケーキを作って貰いたいということだった。けれども、それ以外のお菓子も作ってもらえるというのなら、ケーキ以外のものも注文してみたい気はする。でも、具体的に何を? やっぱりケーキなのでは?
 そんなことを考えながらチラシを腰に付けていたウエストポーチにしまい店から出る。それから、ウエストポーチの中に入れている万歩計代わりのスマートフォンを手に取って数値を見てみる。時間は経っているのに歩数が思ったほど増えていない。なんでだろうと思ったけれども、今までこの店でゆっくりしていたのだから歩数が増えているわけがない。今日もこれから頑張らないと。
 店のすぐ側にある親水公園の道を歩きながら、先程のチラシのことを考える。あのパティスリーで、自分専用に何か作って貰いたいという気持ちはとても強い。チラシを見た限りでは、少々値段が高いような気はしたけれども、オーダーで作るとなるとそういうものだろう。一点物はなんだって高い価値があるものなのだ。
 ウォーキングの続きをしながら、いつか作って貰いたいお菓子を思い描く。けれども、それはとてもあやふやで、自分ひとりでは上手く想像できそうにもなかった。
 こんな調子で本当にオーダーを頼めるのだろうか。少しだけ不安になって、それでも。と考えを改める。相手はこの道のプロだ。多少あやふやでも、欲しいものを精一杯伝えれば形にしてくれるだろう。それに、どうせ今の懐具合では、すぐにはオーダーできないのだ。ボーナスが出るなり貯金するなりして、お金の準備ができるまではゆっくり考えていてもいい。そうやって考える時間は、きっと楽しいものになるだろう。
 今日も甘くておいしいものを食べて、だいぶ気持ちがリフレッシュできた。これからまた一ヶ月後、あのパティスリーに入るまでダイエットを頑張れそうだ。
 一ヶ月頑張った自分をいっぱいねぎらって励ましてくれるのが、あの店のケーキなのだ。食べ物のためにダイエットを頑張るなんて、私もつくづく食いしん坊だなぁ。

 

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