第八章 ニュースタイルショートケーキ

 今日の営業も明日の仕込みも終わり、従業員達が帰って静かになった厨房で、以前から試行錯誤を続けているケーキのレシピを見る。このレシピは、今までの失敗を元に配合を練り直したもので、今日はこれを試作していく。
 レシピ通りに、金属のボウルの中で材料を混ぜていく。まずは卵を割り入れて泡立て器でほぐす。その中にグラニュー糖を入れて、湯煎にかけて泡立てる。泡立て器を持ち上げて、筋ができる程度に泡だったら湯煎から外し、次は米粉とアーモンドの粉を少しずつ入れて馴染ませる。これはゴムべらで泡を潰さないように丁寧にやっていく。粉が馴染んだら、今度は溶かしバターを入れて混ぜる。これも、泡を潰さないように丁寧に手早くやる。
 こうしで出来上がった生地を丸い型に流し入れてオーブンに入れる。これであとは上手く膨らんでくれれば万々歳といったところだ。
 今焼いているのは、ケーキの土台となるスポンジだ。本来なら卵に混ぜ込む粉は小麦粉なのだけれども、どうしても小麦粉を使わずに焼き上げなければならない理由があるのだ。
 ショートケーキは、うちの店だけでなく、どこのパティスリーやケーキ屋でも定番商品だろう。柔らかくてふわっとしたスポンジとホイップクリーム、それにいちごのコントラストは、見た目だけでなく舌も楽しませてくれる。おそらく、日本人にケーキを思い描いてみてくれといったら、多くの人が真っ先にショートケーキを思い浮かべるだろう。
 けれども、そのショートケーキを食べられない人達がいる。小麦アレルギーの人達だ。
 小さな子供だけでなく、大人の中にも、ショートケーキに憧れているのに食べたことがない、一度で良いから食べてみたい。という人はちらほらいる。そんな人達から、小麦アレルギーでも食べられるショートケーキを作って欲しいという声が、この店にたくさん寄せられているのだ。
 他の人が食べているのに、自分は食べられない憧れのケーキを見ている時、一体どんな気持ちなのだろう。きっと、もどかしくてつらいのだと思う。
 アレルギーでケーキを食べられないという人は、小麦アレルギーに限らない。アーモンドであったり、卵であったり、果物であったり、ケーキに使われている様々な材料のどれかにアレルギーを持っている人は少なくない。いや、もしかしたら少なくないどころか、総数としてはかなりの数になるはずだ。そんな人達にも、おいしく食べられるケーキを提供するというのがこの店、正確には俺の理念だ。
 スポンジを焼いている間考え事をする。なるべくそれぞれのアレルギーに対応したケーキを作りたいと常々思っているけれども、その一方で、全てのアレルギーに対応するのは無理だと、正直言って思う。いくら俺が医大時代にアレルギーのことを学んだからといって、どうしても対応しがたいことはあるのだ。それは、複数のアレルギーを持っていて、それを考慮すると使える材料が非常に限られる場合だ。それでも、少なくともその時できる最大限の知識と努力を絞り出して、お客さんが満足できるようにとケーキやお菓子を作ってきた。
 今のところ、注文票と問診票の兼ね合いで断った注文はないけれども、今後難しい注文があることも覚悟しなくてはいけない。いや、その覚悟はこの店を立ち上げたときに決めていたはずなのだ。いつか限界が来るとしても、俺は自分の掲げた理想を追い求めたい。
 そんなことを考えていると、オーブンの中に入れた生地が焼き上がった。よく膨らんだスポンジを取りだし、型から外す。それから、ケーキ台の上に置いて上の膨らんだ部分を、平らになるようカステラ包丁で切り落とす。その切り落とした部分を少し千切って味見をする。少しもちっとしているけれどもふっくらとしているし、アーモンドの粉を入れたからか口の中でほどける感触もある。スポンジだけで見れば、上々の出来だ。
 しかし、スポンジが上出来といっても、これからクリームを塗ってどうなるか。それを確かめなくてはいけない。
 スポンジをケーキ台に乗せたまま冷めるのを待つあいだに、いちごとホイップクリームの準備をする。いちごはヘタを取って縦に薄くスライスしたものと、形の良いものはそのまま、ヘタを取っただけでデコレーションできるようにしておく。続いて生クリームを金属のボウルに入れ、泡立て器で混ぜていく。少しずつ泡立ってきたら、何回かに分けて、グラニュー糖を入れていき、角が立つまでに泡立てる。
 そうしている間に、スポンジの粗熱が取れたようだった。スポンジを横半分に切り、上半分を一旦金属製のバットの上に乗せ、下半分の上部にホイップクリームを塗る。そうしたら、薄くスライスしたいちごを一面に敷き詰めていく。上手いこと敷き詰めたら、いちごの上にまたクリームを塗ってならす。そしてその上にバットの上に置いていたスポンジを被せる。あとは、表面をホイップクリームで塗ってデコレーションするだけだ。
 ケーキの上面にクリームを塗り、側面にも塗って平らにならす。残ったクリームを絞り袋に入れて、ケーキ上面にクリームをデコレーションし、その上にいちごをのせる。これで、ぱっと見た目は全く普通の、いわゆるショートケーキというものができあがった。
 できあがったら、次は試食だ。ケーキにナイフを入れて、六等分に切る。その中の一切れをケーキ用のお皿に乗せて、フォークで口に運ぶ。口の中で溶けるクリームと少し弾力のあるスポンジ、それにいちごのバランスをしっかりと確認する。小麦粉で作るショートケーキとは若干ニュアンスは違うけれども、十分においしい仕上がりだ。これなら、店で出しても問題ないだろう。
 ただ、今後これを商品化するにあたって、課題はまだある。安定してこの仕上がりを保てるのかということだ。
 どのお菓子でも言えるのだけれども、その日の気温や湿度、そういったものにコンディションが左右される。なので、その日その日で微妙に加減を変えながら、一定の品質を保たなくてはいけない。それを、今成功したこのスポンジでできるのか。それが今後の課題だ。
 ただ、とりあえず大枠となるレシピはこれで大丈夫だ。長いこと頭を悩ませていた課題をひとつクリアしたのだから、一旦は一段落ということでいいだろう。
 ケーキを全部食べ終わってから、レシピを持って事務所へと入る。事務所の机の上には、今までに上手くいかなかった試作のレシピが並べられている。そのレシピには、どのような仕上がりになったのかのメモが書き込まれている。
 今日成功したレシピにも、同じように仕上がりのメモを書き、採用の印のスタンプを押す。それから、そのレシピを他の採用レシピが入っている白いポケットファイルに入れる。失敗したレシピも、捨てることはせずに、参考用として黒いポケットファイルに入れた。
 失敗したレシピを取っておく必要などあるのかと訊かれたら、そこははっきりと『ある』と答える。その時は失敗だと判断した仕上がりのものを、他のメニューで使う可能性もあるからだ。なにがどこでどのように役立つのか、それは誰にもわからないのだ。
 事務所に並べられた白と黒のファイルの背を見て、だいぶ試行錯誤をしてきたのだなと感慨に耽る。それから、そろそろ帰らないと明日の仕事に差し支えると、帰り支度をした。
 店を出て、今日は大きな山を越えたのだから、自分への労いにおいしいお酒を飲もうと考えながら歩く。
 どんなお酒を飲もうか。しばらく家でお酒を飲むなんていうことをしていなかったので悩んでしまう。けれどもその悩みは楽しいもので、家の棚に並べている色々なお酒を思い浮かべるだけでわくわくした。
 店から家までの道中、そのわくわくをたっぷりと味わってふと思う。俺は、このわくわくを少しでもたくさんの人に味わって欲しくて、パティシエになると決めたのだ。医大を卒業したあと、調理師学校に行くと決めたときは、疑問の声や反対の声も上がった。どうして医師免許を取ったのに、パティシエになりたいのだと、そう訊かれた。
 俺にとって、医師免許を取るのが最終目的だったのではなく、それはあくまでも過程だった。医学を学んだのは、少しでも安全なおいしいものを、アレルギーのある人でも食べられるように材料を選べるようになるためだったのだ。
 そう説明したら、納得して応援してくれる人も少ないながらにいてくれた。そして今、俺は自分の理想を追い求めることができている。完璧を目指すのはきっと無理だと思うけれども、それでも俺は、もっと頑張って自分の理想を追い求めるのだ。
 願わくば、たくさんの人の笑顔のために。

 

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