第六章 野菜嫌いに贈る

 店を閉め、他の従業員が帰った後に、厨房の調理台に野菜を並べて考え込む。なにをしているのかというと、昨日、野菜嫌いのお子さんを持つお客さんから、なんとか子供が野菜に興味を持って貰えるようなケーキを作って欲しいという注文を受けたのだ。
 お客さん曰く、今まで何件かのケーキ屋やパティスリーに相談したらしいのだけれども、キッシュなどのおかず系ではなく甘いケーキに仕上げるのは難しいといって断られてしまっていたらしい。
 確かに難しい注文だと思う。はじめ聞いたとき、俺も野菜を甘いケーキにするのは難しいと思った。今までに何度か野菜をケーキに使えたらと思ったことはあったけれども、なかなか実行には移せていなかった。
 そんな事もあり、今回の依頼は今まで考えていたことを形にするいい機会だろうと思って注文を引き受けた。そして、少しでもたくさんの人がたくさんの食べ物を楽しめるように知恵を絞り技術を使うのが、このパティスリー・メディクスのモットーだ。断る道理はない。
 しかし、それはそれとしてどんな野菜がケーキに合うのか。それを考えるのは難しい。昨日のうちにどんな野菜を使うかを考えて、今日の休憩時間に、スーパーに行ってピックアップした野菜を買って来た。その野菜が今、調理台の上に乗っている。
 買って来たのは、にんじんとほうれん草とパプリカだ。このみっつを使ったケーキの構想は大体固まっている。実際に野菜のケーキを作るのははじめてだけれども、とりあえず試作をしなくては。
 にんじんをすりおろしながらしみじみと思う。もっと早く野菜を使ったケーキを試作していれば、今回の注文ももっと手際よく構想を固められたかもしれない。そんな事を思っても、過ぎたことはしかたがない。過去を悔やんでいる暇があったら目の前の試作品を仕上げていくしかないのだ。
 にんじんをすりおろし、スポンジ生地に混ぜ込んでいく。これをクッキングペーパーを敷いた天板の上に薄く流し、予熱したオーブンに入れてしばらく焼く。
 その間に、空の鍋に水を張り、それをコンロにかける。それと同時に赤と黄色のパプリカを切って、鍋で暖めていたローズマリーシロップの中へと入れる。できれば一晩くらい漬け込みたかったけれども、とりあえず今回は試作だ。火を入れてパプリカにシロップを染みこませることにする。
 パプリカの入ったシロップを数分煮立たせたあと、しばらく置く。そうしている間に隣のコンロにかけた鍋が煮立ったので、お湯に中にほうれん草を入れて茹でる。しんなりする程度にほうれん草が茹だったら、鍋ごとシンクに持っていき、ザルの中にあけて水を切る。それからすぐに流水で洗って冷まし、手で絞って水分を切る。
 スポンジ生地が焼けたので、オーブンから取り出す。生地を天板から取りだして、四等分して、濡れタオルの上に用意して置いた金属製のバットの上に乗せる。一旦ここに置いて冷ますのだ。
 そうしたら、ほうれん草を高い枠の付いた網の上に乗せ、ヘラで擦って裏ごししていく。裏ごしされたほうれん草は滑らかになって、網の下に置いた皿の上に落ちたり、網の裏側に張り付いたりしている。
 裏ごししたほうれん草をヘラで皿の上に移し、金属のボウルを出してその中に生クリームと砂糖を入れて、泡立て器で泡立てる。慣れないうちはこのクリームの泡立てが重労働のように感じたけれども、今は手早くできる。俺も上達したもんだ。
 固く角が立つ程度に泡立てた生クリームの中に、少しずつほうれん草を混ぜ込んでいく。皿の上のほうれん草を混ぜ終わると、生クリームは一見、抹茶を混ぜたかのように見える色合いに変わった。
 そうこうしているうちに、にんじんの入ったスポンジの粗熱も取れ、シロップの中のパプリカにも味が染みたようだった。
 スポンジを一枚ケーキ台の上に置き、ほうれん草の入ったクリームを薄めに塗りつける。その上に、シロップ漬けのパプリカをぎっしり並べ、またクリームを塗る。その上にもう一枚スポンジを重ねて、同じようにクリームを塗ってパプリカを並べ、またクリームを塗ってスポンジを重ねる。
 それである程度高さが出たら、一番上の部分にクリームを塗りつけ、平らに慣らす。そうしたら、四辺を細く切り落として整えベースの出来上がりだ。断面からは色鮮やかなパプリカが覗いていて、果物だと言われたら納得する人は納得してしまうかもしれない。
 しかし、これだけだと見た目が味気ないので、もう少々クリームの面にクリームを絞り、花を作って飾り付ける。
 それをまじまじと見て、良い出来なんじゃないかと思う。ただ、見た目がよくても味が悪いと本末転倒だ。早速ケーキを切り分けて試食をする。にんじんがスポンジに合うのはある程度わかっていた。スポンジに砂糖以外の甘味が加わってコクが出ている。パプリカも、ローズマリーの効果で独特の香りが薄れて甘さにマッチしているし、食感もフルーツのシロップ漬けのようでなかなか良い。ほうれん草のクリームも、砂糖の甘さとほうれん草の風味が混じりあって、思ったほど野菜を主張していない。
 これなら野菜嫌いの子でも食べられるだろう。なかなかに良い出来になったのを確認してひと安心したら、急にお腹が空いてきた。とりあえず目の前のケーキを食べることにして、それから、余ったスポンジも食べてしまおう。

 それから数日後、野菜のケーキを注文したお客さんがケーキを受け取りに来る日だ。いつものように、前日から入念な準備をし、お客さんが受け取りに来る直前に仕上がるよう、ケーキを組み立てていく。
 ケーキの試作をした翌日、実は他の従業員に残って貰って、あのケーキを試食して貰った。みんな十分おいしいと言っていたけれども、クリームが緑色ばかりだと少し味気なく見えるかもしれないという意見が出たので、花の形に絞るクリームだけ、普通のホイップクリームに変更した。
 花の形にクリームを絞り終え、ケーキを箱に入れてパッケージする。そうしていると、あのお客さんが受け取りに来たようだった。ケーキの入った箱を慎重に運び、お客さんの前へと持っていく。
「お待たせしました。こちらがご注文の品です」
 そう言って箱を開けてケーキを見せると、お客さんは驚いた顔をしたけれども、満足そうに笑って受け取っていった。

 それからまたしばらく。あの時のお客さんがまたこの店を訪れた。またケーキの注文をしたいということだったので、いつものように注文票と問診票を挟んだクリップボードを持って店頭に出る。すると、お客さんはにこにこと笑ってこう言った。
「おかげさまで、うちの子もあの野菜のケーキを食べて、野菜も食べてくれるようになりました。ありがとうございます」
 それを聞いて、大きな安心感と満足感がわいてきた。
 にっこりと笑い返して言葉を返す。
「お気に召したようでよかったです。こちらこそありがとうございます」
 すると、お客さんはまたあのケーキを食べたいと言ってから、こう続けた。
「ところで、野菜のケーキは他に種類はないんですか? あったら食べてみたいと思ったんですけど」
 なんて嬉しい言葉だろう! けれども、今はまだ、その期待に応えられていない。
「申し訳ありません、野菜のケーキはあのケーキが第一号でして、他の種類はまだないんです。
ですけれど、いずれ種類を増やしたいとは思います」
「そうなんですね、その時を楽しみにしています」
 お客さんが期待に満ちた声でそう言って、今日はお子さんのバースデーケーキを注文したいという。お子さんが本当にあのケーキを気に入ったようで、もう一度、前回と同じ野菜ケーキを作って欲しいとのことだった。
 前回と同じ。と言われても、念のため記録を残したり確認をしたりするのに、もう一度注文票と問診票は書いてもらわないといけない。お客さんを客席の空いている席に通し、書類を挟んだクリップボードとボールペンを渡す。
 少し待っていると、お客さんが記入済みの書類を持って来た。それを受け取り、一礼をしてから事務所へと向かう。
 事務所の中で、改めて注文票と問診票を確認する。体調の変化は特になし。味や好みの記入欄も、前回と同じようだった。
 それを見て、前回からの改善点を少し考え、前回と同じにして欲しいということだし、代えない方がいいだろうと判断する。
 しかし、あのお客さんはとても貴重なきっかけを俺に与えてくれた。定番ではなく、季節限定にするにしても、店頭に置く野菜のケーキの試作はやってみよう。

 

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