第十二章 医療と食と

 今日も店での仕事が終わり、家に帰る。直近で作らなくてはいけないオーダーは来ていないので、少し早めに店を出られた。
 帰りにスーパーに寄って夕食の材料を買い、家に付いたらすぐさまに手洗いうがいをして夕飯を作り始める。今でこそ料理をそれなりに上手く作れるけれども、医大時代はまともに料理もできなくて、それもあって俺が医大卒業後、調理師学校に通うと言いだした時に、周りが反対したのだろうなと思う。
 だけれども、今ではしっかりパティシエの仕事ができているし、うちの店で作るケーキや焼き菓子を楽しみにしてくれている人もいる。こんなに嬉しいことがあるだろうか。
 今日の夕飯は、パプリカを混ぜ込んだハンバーグにタイムで香りを付けたソースをかけたものと、たっぷり野菜のポトフだ。もっと凝った料理も作れるといえば作れるけれども、自分ひとりで食べる料理にあまり手間ばかりをかけてはいられない。一日の時間は限られているし、なにより無理に品数を増やそうとすると、献立を考えるだけで参ってしまう。その日作る物のメニューを考えるのは、店に並べるケーキやお菓子だけで十分だ。
 夕食を済ませ、そのまま洗い物も片付けてしまう。使った食器はなるべくその都度洗った方が後々面倒にならないのだ。
 洗い物が終わったら、今度はシャワーだ。休日にはゆっくり湯船に浸かったりもするけれども、今日はこのあとまだやることがある。あまりゆっくりはしていられない。
 手早く、けれどもしっかりと全身を洗ってシャワーを済ませた後は、パジャマを着てパソコンの前に座る。パソコンを立ち上げてネットを見るのだけれども、目に入るニュース系の記事は全てスルーしていく。ニュースは夕食を食べながら、スマートフォンでおおむね見たからだ。
 ネットに繋げて、なるべく大きな画面で見たかったのは、医学系の論文だ。近頃は新しい論文も専門のサイトで公開されていて、ほとんどのものを無料で読むことができる。
 俺がパティシエをやっている上でのポリシーとして、アレルギーや疾病がある人でも食べられるお菓子を作るというものがあるので、そのためにこういった医学系の論文をこまめにチェックするのは大切な作業なのだ。なので、毎日というのはさすがにつらいので、毎週水曜日はこうやって論文のサイトを開いて、新しい論文を読むと決めている。
 今週特に重要そうだと判断したのは、新薬とそれに伴う副作用やアレルギーについての論文だ。この新薬がいつ頃日本で使われはじめるのか、そもそも治験が終わっているのか、その辺りはまだ不明瞭だけれども、いざという時のために覚えておきたい。
 いくつか論文を読み込み、また薬とアレルギーのデータをまとめておかないとと、パソコンと手持ちの手帳に書き込んでいく。この作業を怠ると、アレルギーがあったり服薬中のお客さんが体調を崩してしまいかねない。決して手を抜いてはいけない作業だ。
 論文を読んで、手持ちの薬やアレルギーのデータと突き合わせていく。過去に収集した情報に何か変更はないか、新しく判明したことはないかなどをチェックする。以前発表された論文の内容を覆すような発見があることも少なくはない。なかなかに大変だけれども、こういうことは医大に通っていた頃からずっとやっている。慣れているといえばそれはいいことのようにも思えるけれども、慣れてしまっているが故に見落としがあったらそれは大変なことだ。なので、いまだに情報のチェックにはかなり気を遣う。
 そう、この作業をした後は疲れてしまって他のことをなにもする気になれないので、あらかじめ食事や洗い物、シャワーなどを済ませておかないといけないのだ。
 論文をあらかたチェックし終わった後、今度はいつも使っている医学書の専門店のホームページを開き、めぼしい本がないかどうかを探す。論文のサイトで取りこぼしていたような情報を、出版されている本から得ることもあるので、これも大切なことだ。
 新刊情報を見て、気になる本があったのでその発売日を確認する。いつも通り予約しておけば、発売後すぐに届くだろう。その本は予約することにして、今度は定期購読している雑誌の発売日を確認する。次もいつも通りに発行されるみたいなのでひと安心だ。
 本が届くのが楽しみだ。正直言ってしまうと、本や論文を読むのが大変だと思うことはある。けれども、実際に読んでみれば興味深い内容だし、それになにより、俺の店を頼りにしてきてくれているお客さんにより安全なものを提供するための土台になる。だから、いくら疲れるとはいえこの作業を投げ出すことはできないのだ。
 やるべき事をひととおり終えて、パソコンの電源を切る。時計を見るとだいぶ遅い時間になってしまっていた。
 明日もまた早い。今日はもう寝ないと。部屋の電気を消し、ベッドに潜り込んでぼんやりと考える。俺がこうやって学び続けることで、本当に、喜んでくれる人は増えるのだろうか。たまにそれを考えて不安になる。でも、そんな不安があっても、俺は勉強することをやめられない。純粋に興味があるというのもあるのだけれども、それ以上に、アレルギーがあって食べることを諦めていたケーキを、お菓子をたべて、喜んでくれる人がいたのは確かなのだ。そうやって俺の店を頼ってきてくれる人の期待に少しでも応えられるようになりたい。それが、俺がパティシエを目指した理由だったのだから。
 正直言ってしまえば、俺よりもおいしいケーキや焼き菓子を作るパティシエはたくさんいる。他の店の方がおいしいと言われることもある。それは確かに悔しいと思えることだけれども、こればかりは俺が技術と知識を積むしかない。急いでどうなるものでもない。わかっているのに、そのことは気に掛かってしまう。
 そこまで考えて頬を叩く。今そんなことを考えてもどうしようもない。とにかく、より良いものを作るためには、実践と改善あるのみなのだ。
 ぼんやりと思い出す。俺がパティシエを目指すきっかけになったあの子は、今どうしているだろう。アレルギーが多くて食べ物の制限が多かったあの子は……
 いつか、あの子が俺の店に来て、そうしたら、なるべく食べたいと思ったものに近い、安心して食べられるケーキを提供できたらと思う。
 あの時の俺は、あの子になにもすることができなくて、どうしようもなく歯がゆかった。でも、今ならあの子の願いを叶えられる気がするのだ。他の人が食べているようなケーキを食べたいという、あの願いを。

 気がつけば、ぐっすりと眠っていて朝だった。
 眠る前は色々と考え込んでしまって頭がごちゃごちゃしていたけれども、どうやらかなり深く眠れたようで、頭がスッキリしていた。
 今日も店に行って、お客さんのためのケーキを作るのだ。心の中でそう呟いて、勢いよく起きる。朝食も手早く済ませ、身嗜みを整え、家を出る。白みはじめた空を見ると、気持ちが引き締まった。

 店について厨房に行くと、既に他のパティシエが今日の分の準備をはじめていた。
 朝の挨拶をして、俺も早速作業に取りかかる。ショーケースに並べるケーキにデコレーションをしたりなど、仕上げ作業をやっていく。開店時間までにショーケースいっぱいのケーキを仕上げていかなくてはいけない。店頭スタッフと連携をして、ケーキができ次第ショーケースの中へとケーキーを並べていく。
 今日はオーダーのケーキがないから、いくらか作業に余裕がある。この作業の余裕が気のゆるみに繋がらないように気をつけながら作業を進める。そうしているうちに、ショーケースいっぱいにケーキを並べることができた。
 開店時間はもうすぐだ。いったん作業が一段落付いたところで、従業員を集めて簡単な朝礼をする。昨日気づいた気をつけるべき所の指摘と、今日も一日頑張ろうという激励だ。
 表に出る店員は店頭へ行き、厨房に残ったパティシエは、焼き菓子を作るための作業をはじめる。当然、俺もそれに加わっている。指示を出したり、焼き上がりを見たり、そういったこともしっかりとやっていく。的確な指示を出すことは、作業をスムーズに進めるだけでなく、後継を育てることにも繋がるので欠かせないことだ。
 厨房のメンバーで焼き菓子を作っていると、表に出ていた店員から声が掛かった。どうやら、オーダーをしたいお客さんが来たようだった。
 すぐさまに厨房から事務所に入り、注文票と問診票を挟んだクリップボードを持って店頭に出る。
 さて、今日は一体どんなお菓子のご要望だろうか。

 

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