第十五章 チョコレートクッキー

 今日も日課のウォーキングをこなす。休日なので昼食後にやっているのだけれども、いつものパティスリーの横を通り過ぎたあたりで、そろそろ準備しないといけないものに思いを馳せる。
 もうすぐバレンタインデーだ。うちの職場では女性社員がバレンタインにチョコレートを配って、男性社員もホワイトデーにクッキーをお返しとして配るという風習がいまだに残っている。
 正直言って、お金もかかるし面倒くさいと思うことはあるけれど、いざどんなチョコレートを配るかということを考える時期になると、なんとなく楽しい気分になってしまう。なんだかんだで、おいしそうなお菓子のことを考えたり、見たりするのが好きなのだ。もちろん、ホワイトデーにおいしいクッキーをお返しでもらえるという前提条件があるからというのはあるかもしれないけれど。
 もちろん、職場で本命のチョコレートを渡したことはない。学生時代から本命というものがいたことがない私としては、バレンタインやホワイトデーというのは、おいしいお菓子を贈ったり贈られたりしてみんなで楽しむ日なのだ。
 今年はどんなチョコレートを買って配るか、親水公園沿いを歩きながら考える。デパートでやっているチョコレートの催事に行ってもいいのだけれども、いかんせん人ごみがすごいので、買って帰るだけでかなり体力を消耗してしまう。自分の分も買うことが多いので、催事に行くのが嫌なわけではないのだけれど。
 そこでふと、頭に白い壁のパティスリーが浮かんだ。そうだ。いつものパティスリーも見てみてもいいかもしれない。普段はチョコレート系の物はケーキしかないけれども、この時期ならクッキーやビスケットでチョコレートを混ぜたものを置いてるかもしれない。
 とりあえず、今は親水公園の終点まで歩いて行こう。それからまた引き返してくるのだから、その時にあのパティスリーに寄ろう。そう心に決めると、なんとなく歩調が早まった。

 そして、親水公園の終点まで歩いて、あのパティスリーまで引き返してきた。万歩計を兼ねたスマートフォンで一応ここまでの歩数をチェックする。まあまあいい感じだ。それからそのまま時間を見ると、おやつ時ちょっと前だった。
 いつもみたいにケーキも食べていきたい。そう思ったけど、前回ケーキを食べてからまだ一ヶ月経っていない。だから、バレンタイン用のチョコレートを見るだけにするのだと自分に言い聞かせ、お店のドアを開ける。もうだいぶ馴染んだ微かに甘い香りが鼻をくすぐった。
 店員さんのいらっしゃいませを聞いて、ショーケースの向かい側にある焼き菓子の棚を見る。いつもどおりのビスケットやフィナンシェ、それに以前買っていったこともあるアーモンドとデーツのクッキーが並んでいる。そして、その並びを見ると、普段見かけないクッキーが置かれていた。
 そのクッキーはシンプルな丸い形で、片面にチョコレートがかけられている。かけられているチョコレートはホワイトチョコレート、ミルクチョコレート、ビターチョコレートの三種類だ。
 それを見て、そうそう、こういうのが欲しかった。と嬉しくなる。個包装だし、値段も手頃。それに、一個ずつ値札を見てみると、ホワイトチョコレートのものは小麦を、ミルクチョコレートのものは米粉を、ビターチョコレートのものはアーモンド粉を使って作っていると書かれている。
 うちの職場にアレルギー持ちの人がいるという話は聞いたことがないけれども、万が一はいつだってある。この三種類を合わせて職場の男性陣の人数分になるよう買っていって、それぞれ好みや体調に合わせて選んで貰おうと決める。
 うちの職場は、そんなに人数がいないので、この値段なら今の持ち合わせで十分買えてしまう。このお手頃価格もありがたい。
 職場の男性陣の人数分と、味見用に自分用を各種一枚ずつチョコレートクッキーを手に取って、ショーケースの側にあるレジへと持っていく。まあまあな量になってしまったけれども、それは他のチョコレートを買ってもそうなるので気にしない。
「お買いあげありがとうございます。
ご自宅用ですか?」
 店員さんのその質問に、少し考えてから答える。
「バレンタインのプレゼント用なんですけど、義理なので、配りやすい袋に入れていただけると助かります」
「かしこまりました」
 すると、店員さんはこのお店のショッパーにチョコレートクッキーを詰めて、ショッパーの右上にプレゼント用とおぼしきリボン付きのシールを貼る。なるほど。これなら配りやすいしプレゼント感もある。
 お会計を済ませてお店を出る。それからまた家に戻るまでウォーキングの続きなのだけれども、良い買い物ができたという思いで、足取りは軽かった。

 家に帰り、本当はケーキも食べたかったなと思いながら、チョコレートクッキーの入った袋から自分用のクッキーを出す。早速味見だと目の前に三種類並べると、なんだかどきどきした。はじめて食べるお菓子を目の前にするといつもこうなのだけれども、あのお店のお菓子はおいしいことをよく知っているので、期待が高まっているのだ。
 まずは、ホワイトチョコレートのクッキーを袋から出して囓る。さくさくで、生地そのものは甘さ控えめで、でもかかっているホワイトチョコレートはしっかり甘くて、いかにもバレンタインといった味だ。
 それを食べ終わったら、ミルクチョコレートのクッキーを袋から出して囓る。これはサクサクというよりは、少しカリッとした食感だ。ほんのり甘い生地と、コクのあるミルクチョコレートが相まって、かなり食べやすい。
 そして最後に、ビターチョコレートのクッキーを袋から出して囓る。ほろほろと崩れて、アーモンドの香ばしさとしっかりした甘みを感じられる生地に、苦いチョコレートが良いバランスだ。もしかしたら、男の人はこういうものが好きなのかもしれないと思った。
 とにかく、どのクッキーもおいしい。これなら文句は来ないだろう。あとは生地の材料の開示をして、各々アレルギーに気を遣って貰うだけだ。
 おいしいクッキーを食べて満足した時間を過ごしたあと、その日は一日しあわせだった。夕飯の買い出しに出て、晩ごはんを作って食べて、お風呂に入ったあとでも、あのクッキーの味は気持ちを弾ませてくれていた。
 寝る前の日課の手帳タイムに、今日の出来事として、あのクッキーのことを書く。味の詳細や感想、それと、それを職場のバレンタイン用に買ったことなど、そんなことだ。
 手帳を付け終わったら、電気を消して布団に入る。しあわせな一日だったなと思うと同時に、暗い中目を閉じていると、あのクッキーの味が繰り返し鮮明に思い出されて、また食べたいという気持ちが強くなってきた。
 普段見かけないクッキーだから、きっとバレンタインの、もし期間が長くても、ホワイトデーまでの期間限定商品だろう。
 そう思うと、店頭から姿を消す前に、なんとしてでももう一度買いに行かないとという気持ちになる。一応、手元にまだあのクッキーはあるけれども、あれは職場で配るためのものだ。手を付けるわけにはいかない。
 バレンタインまでは、まだ数日猶予がある。その間に、ウォーキングついでにもう一回買おう。そう心に決めたけれども、あのクッキーのことで頭がいっぱいでなかなか寝付けなかった。

 そして翌日。会社から帰って、急いでトレーニングウェアに着替えて家を出る。もちろん、ウエストポーチには万歩計代わりのスマートフォンとお財布を入れている。
 いつものように少し離れた親水公園沿いを歩いて、一旦あのパティスリーの脇を通り過ぎて終点まで行く。それから引き返して、帰り際にお店に入った。
 ショーケースの向かい側にある棚を見ると、あのチョコレートクッキーが昨日よりもだいぶ数を減らしてそこにあった。
 昨日の段階から徐々に減ってその数なのか、それとも今日また新たに焼いたけど昼間に他のお客さんが買っていってこの数なのかはわからないけれども、とにかく今買わないともう手に入らない。よくても来年までおあずけだと思った。
 本当は買い占めてしまいたいけれども、他のお客さんのことも考えて、三種類を各一枚ずつ手に取ってレジへと向かう。
 そこには昨日と同じ店員さんがいて、にっこりと笑ってこう言われた。
「お買いあげありがとうございます。
このクッキー、お気に召しましたか?」
「はい、昨日ちょっと味見で食べたら、すごくおいしくて」
 すると店員さんは、オーナーも喜びますと頭を下げた。
 このクッキーで嬉しくなってるのは、私の方なのだけどな。

 

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