「オレンジとキャラメルのババロアできました!」
厨房の中からパティシエが表に声を掛ける。すると、表に出ていた店員が厨房に入り、次々と今仕上がったばかりのババロアを表のショーケースへと運んでいく。今日の分の追加は、これでもう十分だろう。下手に余らせてしまってもケーキがもったいない。
今日の分が仕上がったら、次は明日販売する分のケーキや焼き菓子の準備をしなくてはいけない。なのだけれども、スポンジを焼くだとかタルトの土台を焼くだとか、そういった焼く作業は大体他のパティシエに任せている。
この店ができたばかりの頃は、焼く作業もだいぶ俺がやっていたのだけれども、それだと材料などの業者の営業さんに対応しきれなくなってしまうので、今ではパティシエを数人雇って分業している。
実際に店に入って修行をして、いずれ自分の店を持ちたいと思っているパティシエもいるのだろうけれども、俺の店は少々特殊なので、彼らが店を持つときの参考になるかはわからないのだけが少々申し訳ない。けれども、おかげで俺はとても助かっている。
スポンジやタルトの土台、それにクッキーなどの焼き菓子を焼く作業に入ったところで、店の裏口から呼び鈴が聞こえた。今日はいつもお世話になっている業者の営業さんが来ることになっているので、きっとその人が呼び鈴を鳴らしたのだろう。
店の裏口に行き入り口を開けると、きっちりとスーツを着て大きな鞄を持った、馴染みの顔の男性が立っていた。
「どうもお久しぶりです」
「どうも。どうぞ中へ」
男性が挨拶をするので、彼を店の事務所へと通す。こういった来客がある時のことを考えて、応接間なんかがあるといいのだろうけれども、残念ながらこの物件にはそういった部屋はない。なので、いつも裏方の来客がある時は事務所へと通して話をしている。
男性に事務机の側にある椅子に座って貰い、折りたたみ式のテーブルを出す。それから、男性の向かい側に倚子を用意して俺も座る。
「さて、今日はどのようなものを持ってきてくださったのでしょうか」
俺がそう訊ねると、男性は大きな鞄から小さな瓶をいくつか出してテーブルの上に並べる。
「今回は、新作の香料ができたので、そのおすすめに来ました」
そう彼が言うように、彼は香料を作る業者の営業だ。彼の会社では合成香料を作っていて、俺は彼の会社の香料に頻繁にお世話になっている。
合成香料を使うのを渋るパティシエや料理人は多いかもしれないけれども、俺にとって合成香料は非常にありがたいものだ。
営業さんが出した人工香料の入った瓶の香りを嗅ぎ、感触を確かめる。爽やかな桃の香りのものと、いちごの香りのものがある。
「いいですね。成分表などあると嬉しいのですが」
俺がそう言うと、営業さんは鞄の中からクリアファイルに入った書類をテーブルに乗せる。
「こちらがこの香料の成分表とマトグラフィーになります。ぜひ、ご検討ください。
サンプルもいつも通りお付けしますので、なにとぞよろしくお願いします」
「はい、ありがとうございます」
少し営業さんと香料の成分や使い道などを話した後、次の営業先に行くと言うので、営業さんはすぐに帰ってしまった。まぁ、俺も店の仕事をやらなくてはいけないので、長話せずに用件だけで切り上げてくれる営業さんはありがたい。
営業さんが帰った後、事務所のテーブルを片付けて厨房に戻ると、表に出ていた店員から声が掛かった。ケーキのオーダーをしに来たお客さんがいるとのことだったので、また事務所に戻って注文書と問診票を挟んだクリップボードを持って、そそくさと店へのドアをくぐって店頭に出る。するとそこには、緊張した面持ちの若い男性が立っていた。
「いらっしゃいませ。ケーキのオーダーと伺っております。こちらの書類にご記入お願いします」
きっとオーダーをするのがはじめてて緊張しているのだろう。なるべく穏やかな口調になるよう努めてそう言って、男性に書類を渡し空いている客席について貰う。水もコップ一杯分用意した。
ショーケースの内側に戻って男性の様子を見ていると、どうにもひどく悩んでいるようだった。何度も手を止めて、頭を掻きながら記入をしている。
しばらくして、記入が終わったようで彼は俺の所に書類を持って来た。
「このお店なら、要望通りのケーキが作ってもらえるかと思って」
どことなく思い詰めたような様子で彼が言うので、そんなに難しい注文なのだろうかと思いながら問診票と注文書を見る。
どうやら今回オーダーしたいケーキは、プレゼント用のフルーツケーキらしいのだけれども、プレゼントする相手が果物のアレルギーがあると問診票にはあった。
なるほど。これだと他のケーキ屋だと難しいどころか無理な注文になるだろう。
「あの、作ることはできますか?」
心配そうな表情で彼が言うので、俺はにっこりと笑って返す。
「もちろんです。そのためのパティスリー・メディクスです」
すると彼の表情がぱっと明るくなる。もしかしたら、他のパティスリーで散々断られたあとなのかもしれない。何度も俺に頭を下げて、受け取り予定日を告げたあと、彼は店を出て行った。
書類を持って、まずは事務所へと行く。あの男性が書いた問診票と、事務所のパソコンに入れられている合成香料の情報の突き合わせをするためだ。
果物アレルギーがあると書いてあるけれども、それ以外にこれといって目立った既往症はない。花粉症があるとの記述を見て、もしかしたら花粉症の薬は使っているかもしれない。パソコンの中にある合成香料のデータを見て、果物アレルギーと花粉症の時に使われやすい薬の禁忌の成分を参照し、弾いていく。
香料全てでそれをやっているときりがないのだけれども、今回いちごと桃が希望とのことだったので、その辺りの合成香料で突き合わせをしていく。その結果、五種類ほど使えそうな香料が見つかった。
あとは、この香料を上手いこと使ってどうケーキを組み立てるのか構想だ。
ケーキの構想を数日考え、本物を使わないでどうやっていちごと桃を表現するか、それを考えた。結果として思い浮かんだのは、いちごはババロア、桃はゼリーで表現することにした。
あのお客さんが受け取りに来る前日に、ケーキに使うババロアとゼリーの仕込みをする。いちご代わりに使うババロアはそれっぽい形に成形して、赤い着色料をいれたグラッサージュでツヤ感を出す。桃の代わりに使うゼリーは、一度寒天でやわらかめに固めてから細かく砕き、ゼラチンで固める。どちらも甘く味付けするだけでなく、クエン酸で若干酸味を入れてフルーツっぽく感じるようにしてある。甘味と酸味、それにフルーツの香りでそれっぽく寄せたのだ。それらを冷蔵庫で冷やし、あとはスポンジを焼いておいて、明日あのお客さんが受け取りに来る前に組み立てだ。
そして翌日。あのお客さんが受け取りに来る直前に、少しデフォルメされたようなフルーツケーキを組み立て終えた。
見た目は、真っ白なホイップクリームに包まれていて、丸っこいいちごが乗った典型的なショートケーキだ。中身は三段になっていて、ホイップクリームといちご風のババロアと桃風のゼリーが挟み込まれている。
仕上がったケーキを持ち帰り用の箱に入れると、丁度あのお客さんが来たようだった。早速、ケーキの入った箱を両手で丁寧に持って、店頭へと持っていく。するとそこには、緊張と期待の入り交じった顔をしたあの男性が立っていた。
「いらっしゃいませ。ご注文の品が仕上がっております」
そう言って、箱の中からケーキを出して男性に見せる。すると男性は嬉しそうに笑った。
あの男性がフルーツ風ケーキを買って帰ってしばらく経った頃、またこの店を訪れたようだった。その時対応したのは店頭担当の店員だったのだけれども、その店員に、彼は何度もお礼を言って、プレゼントをした妹さんが、はじめてフルーツケーキを食べられて嬉しかったと言っていたと、店員に伝えていたようだ。
店員からその話を聞いて、ひと安心する。あのケーキで喜んでくれた人がいたというのが、俺も嬉しかった。
またフルーツケーキを食べたくなったら、いつでもこの店に来て欲しいと、そう思った。