第九章 向き合うもの

 奏が出演したコンサートからしばらく。私はマネージャーやプロデューサーに事情を説明して、奏に事務所まで来てもらった。
 またいらない噂が立ってSNSで炎上しないよう、マネージャーに奏のことを迎えに行ってもらう。
 今日相談することは、別になにか隠し立てするようなことではない。だからもしまた噂が立って面倒なことになったら、マネージャー同席の元こんな話をした。と言うのはネット上で公表してしまってもいいかも知れない。
 マネージャーに連れられた奏が事務所の応接間にやってきた。呼んだのも用事があるのもお願い事があるのも私の方だ。だから立ち上がって奏に一礼した。奏は一瞬驚いたような顔をしたけれども、すぐいつも通りの澄ました顔になって一礼を返す。
「本日はお招きいただきありがとうございます」
 マネージャーがいる手前か、奏がよそよそしい言葉を口にする。でも、これくらいよそよそしい方がマネージャーも安心するだろう。
 全員が椅子に座った所で話を切り出す。
「今回お呼びしたのは他でもありません。
すでにメールでもお話したと思いますが、私がより人気を集めるために足りない技術はなにかをお伺いしたい」
 私がそう言うと、隣に座ったマネージャーがスケジュール帳のメモ欄を開いてペンを持つ。一方の奏は、持っていた革の鞄からクリアファイルを取りだし、挟まれた資料とおぼしき紙を何枚かテーブルの上に並べた。
 紙には五線譜と音符が書かれていて、五線譜の上の部分と下の部分にピンクの蛍光マーカーが引かれている。他の紙も、五線譜と音符、それに所々マーカーが引かれている。マーカーの位置は音の上下に合わせて引かれていたりと様々だけれど、これを見るだけではこのマーカーが何を指しているのかがわからない。
 目を細めて楽譜を見ていると、奏が口を開いた。
「理奈さんのパフォーマンスについてなのですが、ダンスに関しては十分な実力を有していると思います。
ソロで活動をしているということで、他の人と踊った場合はコンビネーションがどうなるかそこは未知数ですが、ソロで活動している現状では、最大限の働きができています」
 ちゃんとそこまで見てくれているのだと、妙に嬉しくなる。ダンスは私が一番力を入れているところなので、そこは最適解を出せているというのは当然と言えば当然なのだけれど。
 そして、ダンスに問題が無いのであればきっと問題があるのは歌の方なのだろう。五線譜の上下にマーカーが引かれた楽譜を差し出した奏が言葉を続ける。
「歌の方も、理奈さんは上手い部類でしょう。市販されている楽譜で音程を確認したところ、CD音源のみならず、ライブや歌番の収録時も音程のぶれがありません。
ですが」
「ですが?」
 思わず聞き返す。
 音を外してないのにどこが悪いのだろう。いや、その悪いところを指摘してもらうのに、今日は奏に来てもらっているのだ。これでなにもないと言ったら、完璧だという自己満足はできるだろうけれども、これ以上ランキングを上って行くのは難しくなってしまう。
 奏は五線譜に引かれたマーカーの部分を指でなぞりながら言葉を続ける。
「音程は外さないのですが、このマーカーを引いた高音域と低音域に入ると、声の音圧が下がります」
「音圧……」
 精一杯出しているつもりだったし、ある程度はマイクの補助があるからそこまで気にしていなかったけれど、そこはやはり、聴いていて気になる部分なのだろうか。
「理奈さんの声の魅力をより引き出すようにするには、無理のない音域で作曲をするか、もしくは高音が出せるようにトレーニングするか。このふたつの方法が考えられます」
 それを聞いてびっくりする。トレーニングをしていままで出しづらかった音が出るようになるのだろうか。
「トレーニングって、どんなことをやるの?」
「トレーニングですか?
出せる範囲の音から一音ずつ上げていって高音にならすという方法がありますね」
「な、なるほど?」
「上手く裏声を使えば、僕みたいに男でも高音が出せるようになります」
「説得力」
 それから少しの間、私の声の弱点の話を聞いた。正直言って耳が痛かったけれども、投げ出すわけにはいかない。
 ふと、奏がこう言った。
「そう、いまでも人気を誇っているアマレットシロップのふたりがいますよね?
あのふたり、実はそこまで歌が上手いわけではないんです。ですけれども、あのふたりは理奈さんにない強みがあります」
 この話の流れならわかる。あのふたりの強みは……
「高音が安定してるってこと?」
「その通りです」
 頷いた奏は、クリアファイルからいくつもの五線譜が並んだ紙を取り出す。
「アマレットシロップのふたりに限らずですけれども、ヒットチャートに乗る曲は音域、もしくは声質が高めのもが多いです。
低音を好まれると思われがちな男性歌手でも、パートとして言えばテナーあたりの人が多いです」
「それは、その音域が歌いやすいってこと?」
 なにを言わんとしているのかがわからない。思わず口を尖らせると、こう続いた。
「日本人は高音域の歌を好む傾向があります。
音楽通、と言われる人の中には低音が好きだという意見もありますけれども、テレビでなんとなく聞いているだけ、店舗で流れる有線、無料で見られるネット配信などを見ているだけというライト層は高音を好みます。
えっと、この例を出すとわかりやすいでしょうか。小中学校の合唱コンクールの、ソプラノ至上主義とか」
「あ、な、なるほどー!」
 そんな風潮があったなんていままで知らなかった。でも、これを知ったからには手を打たないわけにはいかない。ちらりと隣のマネージャーを見ると、几帳面に奏の話をメモに取っている。マネージャーの手が止まったところで訊ねる。
「マネージャー、これから次のライブまでにボイトレねじ込める?」
 私の言葉にマネージャーがぱらぱらとスケジュール帳を捲って答える。
「休日は余り減らしたくないけど、休日をちょっと削って、ダンスレッスンを少しボイトレに回せばそこそこいけそう」
 それを聞いて、今度は奏の方に視線をやる。
「毎日十分でも継続することが大事です」
「なるほど、ありがと」
「いえ、どういたしまして」
 奏に直すべきところは出して貰った。あとは私がどれだけやれるかだ。次のライブはいつもより大きい箱で、来年行われる。それまでに絶対整えてやる。
 いままで歌のことを軽く見ていたのを自覚して、それがこんなに悔しいなんて。

 

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