第十章 サイリウムの海

 ボイストレーニングを始めてから数ヶ月、ライブの日を迎えた。今回使う箱はいままでのどの会場よりも広くて、それなのにお客さんは会場いっぱいに入ってくれていた。
 この数ヶ月、はじめは慣れなかったボイストレーニングもなんとか続けられた。それはきっと、ボイストレーニングのコーチだけでなく、マネージャーと奏が時々チェックして励ましてくれたり、厳しい意見をくれたりしたからだと思う。もっとも、厳しい意見を言うのは、奏だけだったけれども。
 ステージに上がる前、舞台裏にいても観客のざわめきが聞こえてくる。客入れのための曲が終わるのをじっと待つ。
 客入れの曲が終わった。続いて、客入れよりも大きな音量で私のステージの定番曲の伴奏がかかった。緊張した足取りでステージに上がる。こんなに緊張しているのは久しぶりだ。前のライブの時も、その前のライブの時も、こんなには緊張しなかった。この緊張は、いつもより大きな箱だからというだけではないだろう。奏からもらった意見をしっかりと消化して活かせているか。その勝負があるというのも緊張している理由なんだと思う。
 スポットライトを浴びながら慣れた歌を歌い、踊る。こんなに緊張しているのに足取りは軽かったし、声もいつもより伸びやかだった。
 曲のリズムに合わせて客席のサイリウムが揺れる。サイリウムの色は一色ではなくて、私のイメージカラーのグリーンとピンク、それに混じってブルーや眩しいオレンジ色が所々に見える。
 いままでの箱だと、客席とステージにあまり段差がなかったのと客席自体が狭かったので、電車の窓から見えるイルミネーションくらいの印象だった。それなのに、いま目の前で揺れているサイリウムの光はあまりにも圧倒的だった。
 ああそうだ。私はアイドルなのだ。
 アイドルになったきっかけこそ奏ともう一度会うためだったけれども、それが果たされた今は、その願いを叶えてくれたファンのみんなにお返しをしなくてはいけない。
 今まで一番良いステージになるように精一杯やろう。今ここは私だけのステージで、私だけを観に来たファンが目の前にいる。
 私は今この瞬間、ステージに立っている間だけでも、他の誰よりも輝いているし、輝いていなくてはいけないのだ。

 ライブは、あっという間に終わってしまった。ステージの上を踊って回っていたので腕と脚がだるいし、胸の奥もなんだかぽっかり空いた感じがする。ステージが広かったせいか、いつものライブよりも疲れがどっときている。
 ファンサービスも終わって楽屋でいつものようにぼんやりとピクルスを囓る。歯ごたえのあるニンジンもパプリカもきゅうりも、甘酸っぱくて体の疲れを癒やしてくれる。
 疲れ切っている私を気遣ってか、マネージャーは席を外してくれている。メイクを落として私服に着替えて、ぐったりしているところ、具体的にはノーメイクでいるところはあまり他の人に見られたくない。だから、ひとりで楽屋にいる時間は僅かでも良いから欲しいのだ。
 ふと、先月機種変更したばかりのスマートフォンが鳴る。疲れてるところに誰だろうと少しイラッとしたけれども、つい反射的に手に取ってしまう。どうやらメールを受信したようだ。
 メールの送信元は奏。添付ファイルでグリーンとピンクに光るサイリウムの写真が付いてきている。サイリウムの向こうには、先程までライブをやっていた会場の入り口がライトアップされて写っていた。
 ライブに来てくれたんだ! そのことに驚いてメール本文を読むとこうあった。
『ライブお疲れ様です。楽しませていただきました。
早速ボイストレーニングの結果と言いますか、これからも続けられると思いますので中間報告ですね。それを申し上げますと、まだまだ伸びしろがある印象ですが、しっかりと音を支えられるようになっていて成長が見られます。
個人的な感想ではありますがご参考までに。
とても良いライブでした。これからまた家までお帰りになるのも大変かと思いますが、今日はゆっくりお休みください』
 思わず涙が出た。私はちゃんとやれてたんだ。ちゃんと見ていてくれてたんだ。そんな事がないまぜになって、上手く言葉にできない。
 ぼろぼろと泣き出してしばらく、私があまりにも音沙汰ないので心配したのか、マネージャーがそっと楽屋のドアを開けた。
「理奈ちゃん、どうしたの?」
「マネージャー……」
 まだメイクもしてないすっぴんだけど、マネージャーに駆け寄って服を掴む。
「ねぇ、私、今日の私頑張れた?」
 鼻を啜りながらそう訊ねると、マネージャーは指で私の涙を拭ってこう答えた。
「もちろん、今までで一番って言っちゃうと今までは頑張ってなかったのかってなるけど、頑張ってた。頑張れた」
 マネージャーに手を握ってもらって少し落ち着いてくる。けれど、落ち着いてきたら今度は、客席いっぱいに揺れていたサイリウムの海が思い出されてまた涙が出て来た。
 そう、私は知らなかった。今まで気づかなかった。サイリウムの光があんなにきれいだなんてことを。
 SNSで炎上したときに、ファンなのになんでこんなひどいことをするんだろうと恨んだりもしたけれど、きっとそれは私の傲慢だったのだと思う。私自身が、ファンのみんなに対して誠実じゃなかったんだと思う。
 それなのに。それなのにあんなに沢山の人が私の所に来てくれた。
 もうなにも言葉が出ない。ただただ泣き続ける私に、マネージャーが優しく言う。
「今日は今までで一番、大成功だったよ」
「……うん」
 今回の大成功は、私だけじゃなくて色々な人のおかげだ。こんな風に思うのははじめてかも知れない。
 ふと、自分の手で目を擦って思い出す。まだメイクをしていなかった。いつまでも泣いているわけにもいかない。私はマネージャーの体を押して離して、メイクをするから部屋から出てくれと少しきつめに言ってしまった。これが泣いていたことの反動だとマネージャーは思ったのだろう。会場の撤収時間だけを告げて出ていった。
 鏡の前に座って拭き取り化粧水を含ませたコットンで顔を拭く。ああ、目の周りなんかがもう真っ赤になって、みっともないことになっている。
 けれどもそれが少しだけ誇らしかった。

 

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