第五章 楽しい一日のはずだった

 奏と一緒に遊びに言ったあの日からしばらく。仕事も忙しいし、歌とダンスのレッスンも欠かせない毎日が続く。休憩時間や移動中に携帯電話を握って、奏とメールのやりとりは出来るけれども会うことは出来ないでいた。
 今日もレッスンが終わり、シャワーを浴びたあと控え室でピクルスを囓る。ピクルスの酸味を味わうと、疲労と緊張で強張った身体がほぐれていくようだ。
 真っ赤なパプリカを口に入れて指を拭き、ピクルスの容器を閉じる。甘酸っぱいパプリカを噛めながら携帯電話を開く。レッスン中に奏からメールが届いていたようだった。
 メールを読んでいると、テーブルを挟んで向かいに座っているマネージャーがスケジュール帳を開いて眺めながら口を開く。
「来週の水曜日はお休み確定だね」
「OK」
 私が休みの予定を知りたいと思っていたのがなぜ伝わったのかはわからないけれども、休みの予定をそのまま奏宛のメールに打ち込む。向こうも同じ日に休みのようなので、久しぶりに一緒に出かけようという旨も書いてメールを送信した。
 携帯電話を畳んでマネージャーの方を見ると、なにやら不安そうな表情をしている。
「ん? どうしたの?」
「うん、理奈ちゃん、あの奏君だっけ?
あの子とずいぶん仲が良いなと思って」
「そう見える?」
「まあね」
 マネージャーが思うほど私と奏の仲が良いかと言われると、正直よくわからない。
 同じ音楽教室に通っていた子供の頃はともかく、大人になってからはまだ二回しか会っていないからだ。
 確かにメールは頻繁に送りあってるし、最近はネットだけの関係という物もあるから、親しい関係に見えるのもおかしくはないと思うけれども。
 私が鞄から手帳を出して休みの日にチェックを付けていると、マネージャーがスケジュール帳を閉じてこう言った。
「奏君と会うのは良いけど、週刊誌の記者とかには気をつけてね」
「うん、気をつけておく」
 マネージャーに言われるまま返事をしたけれども、深く考えての返事ではなかった。
 週刊誌の記者なんて、縁のないものなんだから。

 そして翌週の水曜日、奏との待ち合わせの日だ。以前と同じように十分前から待ち合わせ場所にいたという奏と一緒に街を歩く。高いビルが建ち並んでいる点は前に遊んだ街と同じだけれども、このあたりはもう少し澄ました雰囲気だった。
 前回は私が案内したと言うことで、今回は奏がプランを立ててくれた。なんでも、何度も見に行くくらいお気に入りの映画が上映中らしく、ぜひ私にも観て欲しいとのこと。
 私は奏の好きな物をほとんど知らない。だから、彼の好きな物を知るいい機会だと思った。
 待ち合わせ場所から少し歩いて細い道を入ったところにある映画館に着く。大きめの映画館で、何本もの映画が上映プログラムで組まれている。上映プログラムは大きな画面に映されていて、空席状況もひと目でわかる。
 どの映画だろう。そう思っていると、奏が一枚のポスターを指さして私に言う。
「今日はこちらの映画を観ようかと」
 ポスターを見て思わず眉を寄せた。奏が観たいと言っているのはアニメ映画なのだ。
 この歳になってアニメなんてと思っているのが顔に出ているのだろう。奏が熱心にその映画のアピールポイントを力説してきた。
「本当にこの映画はお勧めなんです。
アニメだと言うだけで倦厭されがちなのですが、しっかりしたストーリー構成と演出、それを際立たせる音楽が本当に良くて、普段アニメを観ていない方にもぜひ、ご覧になっていただきたいんです」
「……まぁ、そこまで言うなら……」
 今回のプランを立てたのは奏だし、今回は顔を立てよう。いつもよりも早口で映画の魅力を語る奏に少し引きながら、ふたりで並んでそれぞれにチケットを買う。上映中なにか食べようかと開場までの間にスナック売り場を見たけれど、どうにも気分に合ったものがないので、そのままなにも買わずにシアターに入った。

 映画を見終わって、私はなかなか席から離れられなかった。はじめはなめてかかっていたこのアニメ映画があまりにも琴線に触れて涙が止まらないのだ。
 映画でこんな事になったのなんて初めてで、どうしたらいいのかがわからない。
 そうしていると、奏が隣からハンカチと鏡を差し出してきた。
「次の上映があるのでいつまでもここにはいられません。
涙をふいて、メイクをチェックしてここを出ましょう」
「あ、そうだね。ありがと」
 ハンカチを受け取って抑えるように顔をふく。それから鏡を覗き込むと、ウォータープルーフのマスカラとアイライナーを使ったのが功を奏しているようで、アイメイクは崩れていない。これならお手洗いでファンデーションを直すだけで良さそうだ。
 映画の内容が良かったのもあるけれど、アニメが好きな奏にこんな風に親切にされると、アニメも悪いものじゃないなという気になった。
 シアターを出てお手洗いでメイクを直して、映画館を出る。少し陽が暮れて来たと奏と話していると、どこからか視線を感じた。なんだろうと思って周りを見渡したけれども、私たちのことを見ている人は見当たらなかった。
 映画館を出たあとはウィンドウショッピングをして、夕食を食べて、また会おうと約束をして解散になった。
 もう少し遅くまで遊んでいたかった気はするけれども、あまり遅くなると危ないだろうと言うことで早めに帰ることになった。
 でも、それは良かったのかも知れない。明日はまた仕事があるし、疲れが残ってしまうと困る。家に帰って手を洗ってから、冷蔵庫を開ける。よく冷えたピクルスを数切れ食べて、お風呂の準備をした。

 数日後、事務所に行くとマネージャーが暗い顔をしている。
「マネージャー、どうしたの?」
 テーブルを挟んで向かいの椅子に座ってそう訊ねると、マネージャーは情けない顔をして広げた雑誌を私に見せた。
「理奈ちゃん、これはヤバいよぉ……」
「ヒェ……」
 その雑誌は週刊誌で、誌面には大きく私と奏が並んで映画館から出て来たところの写真が載っている。『熱愛発覚か』の煽りを見て、そんな事実はないのにという思いと、これはまずいことになったという思いで、顔から血の気が引いていった。

 

†next?†