其の一 親愛

 私の名前はプリンセペル。父なる神に仕える天使達を纏める天使長だ。

私の仕事は天使を纏める事は勿論、神の補佐なども含まれる。

 補佐の仕事の内、私がいつも神に言いつけられるのを楽しみにしている仕事がある。

それは、堕天し地獄を統べて居る兄の、現状報告を聞きに行く事だ。

 何故神が地獄の現状報告を聞くのか。疑問に思う人間も多いだろう。しかしそこまで疑問を抱く様な理由ではない。

天界と地獄はその両方があって、バランスが保たれている。そして地獄もまた、神が作り出した物なのだ。

なので、神は地獄の様子も見ているのである。

 

 兄さんは堕天したという建前上、天使長である私には素っ気なく接してくる。

 兄さんが天界に居た頃は、私の髪を結ってくれたり、落ち込んでいる時には優しいキスを落として慰めてくれていた。

けれども、今はそれが無い。

 天使長としての自覚を持て。兄さんはそう言う。私もそう思う。けれども私には、 兄さんの温もりを感じられない事がひどく辛かった。

 この日、私はひと季節ぶりに兄さんの元へ行く事になった。

 このところ激務が続いているので、代わりに他の天使を地獄に遣るかと神に言われたが、 私は兄さんに会える機会を潰したく無かったので、無理を押して地獄へと向かう。

 いつも通り、地獄にある兄さんの住処で迎えられた私は、兄さんと一緒にテーブルに着き、報告書類のやりとりと、 事務的な話をする。

 ふと、兄さんがこう言った。

「随分と疲れた顔をしているな」

 確かに、兄さんの言う通り疲れは溜まっているが、その事で兄さんに心配をかける訳にはいかない。

大丈夫だ。そう言おうとすると、口から言葉が出る代わりに、涙が零れた。

 こんな事では兄さんに心配をかけてしまう。迷惑を掛けてしまうのに。なのに、止められなかった。

 私がしゃくり上げて居ると、向かい側に座っていた兄さんが溜息をついて立ち上がり、私の横に来る。

それから、そっと私の涙を指で拭い、頬に手を当て、唇にキスを落とした。

柔らかく温かい感触の後、兄さんはその腕で私を抱きしめて言う。

「ああ、お前にプレッシャーを掛けすぎてしまった様だな。

真面目なお前の事だ。天使長らしく振る舞おうと、天界で無理をしているのだろう?

少し休んでいくが良い」

「でも、兄さん。私は……」

「早く天界に帰らなくてはいけないのは解る。

だが、大切な弟が辛い思いをしているのに見過ごせるか。

神には、私に引き留められたと言っておけば良い」

 昔と同じ兄さんの温もりを感じながら、腕の中で何度も頷く。

暫くそうしていると、兄さんがベッドを貸してくれるというので、少し眠っていく事にした。

 

 兄さんの部屋に案内され、ベッドに腰掛ける。

このままではゆっくり休めないだろうと、結い上げていた私の髪を丁寧にほどいて、梳いてくれている。

 それから、私はベッドに潜り込み、兄さんの手を握りしめる。

「……これでは離れられないではないか」

 困った様な声を出す兄さんに、私はねだる。

「起きるまで、側にいてくれ」

 すると兄さんは、確かに私の手を握り返し、仕方の無いやつだ。と言う。

 久しぶりに感じる兄さんの温もり。

甘美なその感触に、私は眠りについた。

 

 夢を見た。まだ兄さんが天界に居た頃の夢だ。

その頃兄さんは神の右腕として働いていて、神の御前に出る時は髪を結い、花で彩らなくてはいけないと言っていた。

神の御前に出た日の晩は、きまって兄さんの髪からは、甘い花の香りがしていた物だった。

ふとした瞬間に、兄さんを後ろから抱きしめた時に感じた花の香り。

兄さん。ああ、兄さんは。もう花の香りはしないのだろうか……

 

 手を握られる感触に、私は目を覚ます。

目覚めてみれば、私はしっかりと兄さんの手を握っていて、兄さんはそれに応えてくれていた。

「起きたか。

服の乱れを正して、髪を結い直せ。

……それとも、私に結って欲しいか?」

 兄さんの言葉に思わず甘えそうになったけれども、いつまでも兄さんに甘えている訳にはいかない。

「大丈夫。自分で結える」

 そう言って私が起き上がると、兄さんは、そうか。と言って部屋を出て行ってしまう。

兄さんの居なくなった部屋で、手の感触を思い出しながら髪を結い始めた。

 

 髪を結い、服を正して部屋を出ると、いつも書類をやりとりしている居間に、兄さんがテーブルについて居た。

「準備が出来たか。

疲れを取るのにこれでも食べていくが良い」

 兄さんの言葉にテーブルの上を見ると、そこには円筒形に丸まったガレットが三本ほど乗った皿があった。

「ああ、ありがとう」

 礼を言って椅子に座り、ガレットを一本、口に運ぶ。

すると、香ばしさに混じって瑞々しいブルーベリーのはじける感触と、甘みを感じる。

 これは昔、兄さんが良く作ってくれていた物だ。懐かしさで胸が苦しくなる。

 夢中でガレットを食べていると、兄さんが笑って言う。

「余程、疲れていたのだな」

 ガレットを食べ終えた後、私はすぐさま立ち上がり、兄さんをそっと後ろから抱きしめた。

 あの頃の様に結ってはいないけれど、艶やかな髪。それからはほのかに、甘い花の香りがした。

それを感じて私は、ああ兄さんは、堕天しても尚天使なのだと思った。

「兄さん、相変わらず綺麗な髪だな。

それに、花の匂いもする」

 私の言葉に、兄さんは私の手を優しくなぜながら答える。

「仙人掌の花の香油を貰ってな、最近はそれを使って手入れしているんだ」

「私が香油を持って来たら、使ってくれるか?」

「ああ、勿論。香油は貴重な物だからな。使わずに悪くしてしまう訳にはいかない」

 暫しそんな話をして居たけれど、いつまでも地獄に居る訳にはいかない。私はそっと兄さんから離れ、 書類を持って天界へと帰った。

 

 天界に帰り、神に書類を渡した後、暫しの休憩時間を泉のほとりで過ごしていた。

 ぼんやりと兄さんの事を思い出す。

兄さんが堕天したきっかけ、それは人間に恋をしたからだと、神から聞いた。

 その時、兄さんは私よりも人間を選ぶのかと、ひどく落ち込んだ記憶がある。

けれども、兄さんが私の事を大事に思ってくれているというのは、変わっていなかった。

兄さんの中での一番は、私ではないけれども、それでも優しかった。

 兄さんは私を受け入れてくれていない訳ではないというのがわかって安心したけれども、 それでもこころに引っかかるのは、私が兄さんの一番ではない事だった。

 優しさだけで満足しなくてはいけないのに、それが出来ない。

私は少しだけ、そう、本当に少しだけ、人間が嫌いになった。

 

†next?†