第七章 友人と一緒に美術館

 悠希がそろそろ新しく書く小説のネタ出しをはじめた頃のこと。このところは調子が悪いのか、それとも、鎌谷との散歩以外は家に籠もっていて刺激がないからか、どうにもネタを出すのに苦戦していた。
「お前がそんな詰まってるの珍しいな」
 ちゃぶ台の上の灰皿に鎌谷が煙草の灰を落としながら、悠希の手が止まっているのを見ている。
「うん……今までそんなにネタ出しに困ったこと無いのに、なんでだろ」
 沈んだ声でそう言う悠希に、鎌谷は当然と言った風に答える。
「そりゃお前、アウトプットに対してインプットが足りてないからだろ」
「確かに、本を読むペースが少し落ちてるかも……」
 パソコンデスクの上に積まれたハードカバーの本に目をやってそう言う悠希の腕に、鎌谷が肉球を押しつける。
「インプットは本からだけじゃねえだろ。
前にも増して外に出なくなったから、刺激が足んないんだと思うぞ」
 それを聞いて、悠希は少し考える。確かに心当たりは有るような気がした。ならば今度どこかに出かけてみるかと思い始めたところで、悠希の携帯電話が鳴った。どうやらメールを着信したようだった。
 誰からだろうと開いてみると、友人のジョルジュからおでかけのお誘いだった。なんでも、今度久しぶりに会って、上野の美術館でも一緒に行かないかとのことだ。日程も提案されていて、悠希もその日は空けられそうだった。
「上野かぁ」
 そういえば、美術館にももうしばらく行っていない。小説を仕事にする前までは時間が有り余っていたので、ジョルジュを含む友人や、妹の匠と一緒に足を運ぶことも多かったのにだ。
「美術館か?」
 もうわかっているといった風の鎌谷にそう訊ねられて、悠希は頷く。すると鎌谷は、煙草を吹かしてこう続けた。
「誰からかはわかんねーけど、いい機会じゃないか? 行ってこいよ」
「うーん……」
「なんか悩むところでもあんのか?」
「ジョルジュからのお誘いなんだけど」
「あー、なるほど」
 これだけでなにを言わんとしているのか、鎌谷はわかったようだった。
 悠希が戸惑っている理由は、ジョルジュに苦手意識があるとかそういうわけではなく、ただ単純に、ジョルジュは既婚者なので、奥さんを置いて自分と一緒に出かけてしまっていいのだろうかと、その事が気になったのだ。
 とりあえず、行くのは良いけれど奥さんはどうするのかとメールで訊ねる。メールを送信してから数分、またメールを着信する。そのメールには、その日妻が他の友人と出かけるので、それならば、自分も久しぶりに悠希に会おうと思った。と書かれている。
 なるほどなと納得した悠希は、そういうことならと一緒に出かける旨をメールで返した。

 そして約束の日、悠希は上野駅の中央改札口でジョルジュのことを待っていた。携帯電話を開いて時間を確認する。約束の時間まであと五分ほどだ。ジョルジュは比較的時間通りに来るタイプなので、もうすぐ来るだろう。そう思って改札を見ていると、手を振りながら近づいてくる人影があった。紫色の髪を肩より上できれいに切り揃え、かっちりとしたスーツに身を包み、上品な足取りで悠希の元まで来る。
「やあ悠希、久しぶりだね」
 にこやかにそう話し掛けてきた彼に、悠希もにこやかに返す。
「久しぶりだねジョルジュ。このところはどう?」
「ああ、おかげさまで元気だよ。少し身体が鈍った感じはするけれどね」
 ジョルジュと無事合流出来た悠希は、早速美術館に行こうと声を掛ける。ふたりは、駅を出てすぐの所に有る坂道を登って、美術館へと向かった。

 上野駅の公園口近くにある美術館が、今回の目的だ。生憎特別展はやっていないけれども、常設展のものだけでも十分見応えはある。
 美術館の小さな門を通り、ふと、ジョルジュが敷地内の駅側に置かれた、大きな四角い彫像を指さした。
「悠希は、あれが何か知っているよね?」
 彫像を見て瞬きをした悠希が答える。
「地獄の門だよね。あれが無料で見られる範囲に置かれてるのも、すごいけど」
「たしかにそうだね」
 悠希の言葉に頷いたジョルジュが、少し声を低くしてこう続けた。
「あの地獄の門は、本当に地獄へと続いているという話が有るんだよ」
「えっ? そうなの?」
 そんな話は初耳だ。けれども、ジョルジュが指さした地獄の門には、それを本当のものと思わせる迫力がある。なので悠希は、なんとなく納得してしまったようだった。
「少しこわい話をしてしまったかな?
それじゃあ、中に入ろうか」
 いたずらっぽく笑うジョルジュのあとについて、チケットを買って館内に入る。特別展はよく行くけれども常設展はどこだっただろうときょろきょろしていると、慣れた様子のジョルジュが案内をしてくれた。

 常設展の展示室には、ほとんど人がいない。気になった作品を好きなだけ眺められる良い環境だ。
 展示室の中央近くに置かれた彫像を見ている悠希に、ジョルジュが声を掛ける。
「そう言えば、今日は鎌谷君はいないのかい?」
 人がいないとは言え余り大声は出せないと思っているのだろう、小さな声で訊ねられたその質問に、悠希も小声で答える。
「鎌谷君は美術館に興味無いからって、家で待ってるって言ってた」
「そうか、なるほどね」
 もしかしたら、ジョルジュは鎌谷にも会いたいと思っていたのかも知れない。だとしたら申し訳なかったなと、悠希はちょっとだけ思った。
 ゆっくりと展示室を巡って、悠希はひとつの作品に目を留める。それは木の板に描かれた宗教画だった。その絵はジョルジュも気になっているようで、悠希の隣に立ってじっと見つめている。
 ふと悠希が呟く。
「神様は、ほんとうにいるよね」
 それを聞いたジョルジュは、ほんの少しだけ複雑そうな顔をして返す。
「そうだよ。神様はほんとうにいらっしゃる」
 ジョルジュはクリスチャンなので、神様がいるというのは当然の事実なのだろう。それを悠希はわかっているけれども、悠希自身が神様はいると思っている理由は、言えないようだった。

 常設展をじっくりと回り終わり、ふたりは美術館を出て近くにあった喫茶店でお茶を飲んでひと休みしていた。
 ついでにおやつも、と言うことで頼んだケーキをそれぞれに食べながら、積もる話をする。
「ところで悠希、小説の仕事の方はどうなんだい?」
 ジョルジュの問いに、悠希は困ったように笑う。
「順調と言いたいところなんだけど、最近ネタ出しで詰まるようになっちゃって」
「そうなのか、それだと大変だろう」
 心配そうな顔をするジョルジュに、悠希はこう続ける。
「でも、今日ジョルジュが連れ出してくれたから、なんか良い案が浮かびそうな気がするよ。ありがとう」
 するとジョルジュも安心したようにはにかんでこう言った。
「それはよかった。実は僕も、しばらく型紙の仕事に追われていて家に籠もっていてね、気分転換がしたかったんだ」
「家に籠もって仕事も、大変だよね」
 ゆっくりケーキを食べながらお茶を飲んで、ふたりはこのまますぐに帰るのもしのびないと言うことで、このあと博物館も見ていく事にした。

 博物館を閉館ぎりぎりまで楽しんだふたりは、駅前にあるお店へ夕食を食べに移動した。ふたりがこうやって上野に来た際にはよく利用するパスタレストランだ。
 ゆっくりにとはいえ、積極的にパスタを食べている悠希を見てジョルジュが驚いたように言う。
「悠希、前に会ったときはもっと食が細かったのに、そんなに食べるようになったのかい?」
 その言葉に、悠希は照れたように笑う。
「実は最近、ちゃんとごはんを食べるようになって、また食べるのにも慣れてきたんだ」
 ジョルジュが安心した顔をして紅茶を一口飲む。
「それはよかった。以前の君は、随分と儚げだったんだよ」
 そんなに心配されていたのかと悠希はすこし恥ずかしくなる。けれども、その心配を払拭出来たのなら良い変化だ。
 またゆっくりとふたりで話をしながら食事をして、一時間ほど休んだところでそろそろ帰ろうと席を立つ。会計の時に、ジョルジュがこの店の名物のプリンを持ち帰りで四個ほど購入していた。
「折角だから、家族にお土産を買っていこうと思ってね」
「ああ、なるほど」
 それを聞いて、悠希も鎌谷になにかお土産を買っていこうかと考える。長い時間家に置いてしまっているし、たまには酒のつまみになる何かを買っていっても良いかと、そんな事をぼんやりと思ったようだった。

 

†next?†