バレンタインのチョコレートをもらって以来、悠希はどうにも仕事に身が入らなかった。次の紙の守出版での打ち合わせの時までに、なんとか持ち直さなければいけない。
いや、それ以前に、ホワイトデーにはお返しをしないといけないのだろうから、それまでに何らかの形で気持ちを固めないといけない。それはわかっているのに、自分ひとりでそれをするのは、ひどく難しいことのように思えるのだ。
ホワイトデーの二週間ほど前の日に、悠希はカナメと緑に助けを求めた。打ち明けられた気持ちをどう受け止めれば良いのか、アドバイスが欲しかったのだ。
悠希の一大事と知ったカナメと緑は、すぐに日程を調整して悠希と会ってくれることになった。カナメは近所に住んでいるのですぐに会えるのだけれども、緑も含めてとなると、気分転換も兼ねてどこかへ出かけて会ったほうがいいだろうという話になったのだ。
上野公園にある喫茶店で、それぞれにお茶とケーキを頼む。
「今日は鎌谷いないんだな」
少し残念そうな顔をして緑がそう言う。悠希も、少しだけ困ったような顔をしている。
「本当は連れてきたかったんだけど、いつまでも俺を頼るなって言って」
「なるほどな」
納得した様子の緑が、りんご入りのハーブティーをひとくち飲む。カナメも、赤いハーブティーで口を湿らせて、こう言った。
「それで、本日の議題は、悠希さんがバレンタインの本命チョコもらったんだけどどうしたら良いかわからんかってんからなんとかしてほしい。って事だよね?」
「うん、そうなんだ」
実を言うと、悠希はバレンタインに本命のチョコレートをもらったのは、今回が初めてではない。昔、まだ高校生だった頃にもらったチョコレートの返事は、なんの迷いも無くその場で返事を返せたのに、なぜ今回はそう行かないのかが自分でもわからなかった。
もじもじしている悠希に、カナメが言う。
「なんにせよ、お返しはしないとね」
続けて緑も言う。
「お返しのセレクトをくれぐれも間違えないようにしないとな」
それを聞いて、悠希もそれはわかっているといった様子だ。悠希が手元のケーキをフォークで切りながら呟く。
「お返しはもちろんするけど、でも、手紙の返事はどうしようって思って」
その言葉に、カナメと緑はすぐさまに答える。
「それは自分で決めないと」
「そこは自分で考えなきゃダメだろ」
それはわかっている。わかっているけど、どうにも決めかねて、ふたりに話を聞いてもらっているのだ。
ふと、緑がこう訊ねてきた。
「そういえば、悠希って過去に本命もらったことないのか?」
「それは、あるんだけど」
「その時どうした」
「すぐに返事を返したよ」
これは何度も自問自答する中で、繰り返し思い出す事柄だ。
やりとりを聞いていたカナメが、真面目な顔をして言う。
「もしかして悠希さん、今回も本当は答えが決まってるけど、誰かの後押しが欲しいんじゃないの?」
「後押し……」
それを聞いて悠希ははっとした。なんとなく、自分の心の内がわかった気がするのだ。これから取る行動に、他の人に責任を分かち合って欲しかったのではないかと、そう思った。
緑がにっと笑って言う。
「どう返すにしろ、他のやつに責任を投げるのはよくないな」
「うん。そうだね……」
それから少しの間、悠希はお茶とケーキを口にしながら、頭の中で考えを整理しているようだった。その様を、カナメも緑も黙って見守っている。
それから、ケーキを食べ終わって、お茶を飲み終わるまで、悠希は黙って考え込んでいた。テーブルの上の食器が下げられた頃、悠希が意を決したようにカナメと緑に言う。
「これからお返しの品を買いに行こうと思うんだけど、一緒に選んでくれる?」
その言葉に、待ってましたとばかりにふたりは笑顔になる。
「もちろん、僕も手伝うよ」
「おう、俺も一緒に選ぶよ」
それを聞いて安心したのか、悠希もようやく笑顔になった。
喫茶店を出たあと三人が向かったのは、少し歩いたところにあるデパートだ。そこに行けば、お返しに丁度良いお菓子がおいてあるだろうと踏んだのだ。
デパートに入り、お菓子売り場を三人で回る。何を買うかの情報は共有されたけれども、具体的にどの店で買うかは、まだ決めていない。
「あー、これかわいい」
「それもかわいいな」
お返し選びは、なぜか悠希よりもカナメと緑の方が夢中になってしまっている。店内を歩き回って、一通り見たところで、改めてどれにするかの判断を悠希に仰ぐ。
「どれもかわいかったけど」
そう言って悠希はカナメと緑を連れて、目星を付けた店に向かう。
「これなんかどうだと思う?」
辿り着いた店で悠希が指さしたのは、色とりどりの包み紙が入った可愛らしい袋だ。
それを見てカナメと緑が言う。
「かわいいー」
「おー、かわいい」
このふたりはかわいいしか言わないな。と悠希は思ったようだけれども、下手に難癖を付けられるよりは気分が良い。悠希はその袋を選んで、店員にギフトラッピングを頼んだ。
無事におかえしを購入したあと、悠希がデパートのエスカレーターのそばでふたりに訊ねる。
「そういえば、ちょっと文房具も見に行きたいんだけど、いいかな?」
それを聞いてふたりは快く了承する。そしてそのまま、上の階にある文房具売り場へと向かった。
文房具売り場で悠希は、便せんが置かれている棚へと足を向けた。色々な便せんがあるけれども、どんなものが良いか。これもカナメや緑は色々とお勧めを探してくれたけれども、最終的に選んだのは薄く色づいた桜柄のレターセットだった。
「買い物はこれで終わりかな」
すっかり悩みがなくなったといった顔でそう言う悠希に、カナメも緑も安心したようだった。
デパートを出てから、緑が悠希とカナメに訊ねる。
「このあとどうする? 夕飯食ってく?」
その問いに、悠希は少し考える素振りを見せてから答える。
「今日は鎌谷君を置いてきてるから、早めに帰って晩ごはんの用意したいな」
「そっか」
悠希の言葉に、緑は特に不満は無いようだ。カナメが悠希を見てにやっと笑う。
「はやくお手紙書きたいんでしょ?」
その言葉に、悠希は顔を真っ赤にする。どうやら図星のようだった。
その様子を見ていた緑もにやっと笑う。
「そっか、それだとあんま引き留めるのも悪いな。
じゃあ今日はこれで解散か」
「そ、そうだね。今日はありがとう」
軽く挨拶をして、それぞれ駅へと向かう。緑は国鉄の駅へ、悠希とカナメは私鉄の駅だ。
一緒に帰りの電車に揺られる悠希とカナメ。ふと、カナメがぽつりと言った。
「大丈夫。なるようになるから」
それを聞いて、悠希は何故だかひどく安心した。
「ただいまー」
「おう、おかえり」
家に付くと、いつものように部屋の奥から鎌谷が返事をしてくる。ふと、鎌谷は悠希が手に持っている紙袋に気づきなにかを言おうとしたようだが、すぐになにも気づかなかった振りをして煙草を吹かした。
鞄と紙袋を置いた悠希は、早速鎌谷の夕飯の犬缶を開けている。まだ夕食には早いと鎌谷は思ったようだけれども、そわそわとした悠希の様子を見てなにも言わない。
鎌谷に犬缶を出した悠希は、早速パソコンデスクに向かって座り、買って来たレターセットを用意する。それから、手紙を書くときに使っている万年筆のコンディションを見て、良さそうだと確認してから手紙を書き始めた。
万年筆が紙を滑る音を聞いて、鎌谷の目はなんとなく潤んでいるようだった。