第一章 イルラキの決断

 森の奥の湖の畔。そこにある小さな家に、私はひとりで住んでいた。

 私はこの家から一歩も外に出たことが無い。昔は両親と一緒に暮らしていたけれども、両親は早死にしてしまい、 今は遺体ごとデータ化し、メモリを兼ねた小さな宝石に収めてある。その宝石は、 3Dプリンタを使用して作ったチタンの指輪に据えてある。

 この家にひとりで住み、外にも出ないけれど、生活で困ったことは無い。家の地下倉庫には百年分の保存食料があるし、 それ以外に十年分の携帯食料が蓄えてある。衣料品は、 定期的に必要な分だけ宅配ボックスに届けられる。大量の食料があると言うことと、家から出ることが無いという事以外は、 一般的な生活を送っているはずだ。

 何故私が一歩も家から出たことが無いのかというと、理由は出生時に例示された、 青年期の予想画像にあった。その画像が出力されたとき、そのあまりのうつくしさに、 その場に居合わせた技師や医者、看護師が次々に正気を失ったという。そして、 今思うと両親も正気を欠いていた様に思える。その予想画像は、私も何度も見たけれど、確かに私は、 何事も無ければこの様になるのだろうなと感じたし、成長するにつれて画像に近い面持ちになっていった。

 両親は特に仕事らしい仕事はしていなかったけれども、数世紀前にベーシックインカムが施行されてからは、 慎ましやかに暮らすだけなら、仕事をする必要は無くなっていたので、無職である事に別段不思議は無かった。

 遙か昔、学校という物が有った時代には、私のような生活は認められていなかったのだろうけれども、 今は全部インターネットとVRで教育をすませられる。

 教育プログラムVRを使用している間は、皆アバターを使っていたけれども、 私のアバターは常に仮面を被っていた。その仮面が不気味だと言われたことはあるけれど、 私はその仮面がお気に入りだった。両親が私のために用意してくれた、病を避ける仮面。

「これを着けていれば、嫌な物は寄ってこないからね」

 お母さんが縫合し、お父さんがレンズを填めた、長い嘴を持ったそれは、ペストマスクと呼ばれる物だった。

 

 私の日課は、国立のストーリーデータベースという、色々な物語を収録している場所にアクセスし、沢山の物語を読み、 そしてそれらが繋がっていたらという空想をし、自分で楽しむ事だ。

 物語の読み込みはほんの一瞬で、どんなに膨大な物語も記憶に刻まれる。勿論、脳の記憶容量には限界があるので、 追加メモリを挿しているとはいえ、物語を読み込めば読み込むほど、忘却していく物もある。

 何を忘れていくのか、ある程度それを指定出来るので、私は覚えている記憶の中からもう必要無い物にチェックを入れ、 消えていくがままにしていた。

 そんなある日、ストーリーデータベースを管理しているAIからこう告げられた。

「ハロー、親愛なるイルラキ。

あなたの要求する未知の物語ですが、こちらには既に該当する物が有りません」

「え? ユガタ、どう言うこと?」

 ユガタというのが、AIの名前だ。白髪に白い服、 それに小さな体が特徴的だ。そんな彼に要求している物語の検索条件は、『私が知らない物』という、 たったその一点だけだ。

 ストーリーデータベースは、ありとあらゆる物語をその身に蓄える。それが喩え、 子供を寝かし付けるときに即興で作った辻褄の合わない、その場限りの物であっても、だ。

「あなたは、この世界に存在する全ての物語を知ってしまったのです」

「全ての物語を? まさかそんな」

 とてもにわかには信じられない言葉だったけれども、あり得ないこととは言いがたかった。何故なら、幼い頃、 物語に触れるようになり始めてから、ユガタが提示する残りファイル数は徐々に減って行っていて、 平均すると右肩下がりになっていたからだ。

 まだ暫くは自分の空想の中だけでも遊べるけれど。そう思っている私に、ユガタは言う。

「イルラキ、私の元へ来ませんか?」

 VR空間の中でそう言った彼は、私と彼の間に地図を表示させる。地図を見ると、 私の家からユガタが居るはずのストーリーデータベースが設置された施設は、随分と離れているように見えた。

 ユガタに直接会いたい気持ちはあったけれど、家から出たことが無い私が、 ひとりで彼の元まで行けるとは思えなかったし、何故私を呼ぶのか、その真意もわからなかった。

「なんで私に行って欲しいの?」

 そう訊ねると、彼はこう答えた。

「今この世界で、物語を紡いでいるのはあなたひとりです。

なので、あなたの物語を、私に入力して欲しいのです」

「でも、それは直接行かなくても出来る事じゃない?」

「はい、可能です。けれども」

「けれど?」

「私は生身のあなたに会いたい」

 そう言われて、胸を捕まれる心地がした。私も、長年仲良くしてくれているユガタに、直接会ってみたいのなら、 今こそ勇気を出すべきなのではないかと、そう思った。

 

†next?†