第五章 東の国

 長かった往路も、そろそろ終点を迎えそうだ。
 ずっと砂漠ばかりだった周囲が少しずつ緑で染まり、通りかかる人も増えてきたのだ。
 けれども、ここまで来てついに言葉はもちろん、身振り手振りも通じにくくなってきた。人里に入っても宿を探すことができないのだ。
 民家のある所ではそっと軒先を借りて眠り、食べ物はだいぶ前に訪れたオアシスの村で買った干し肉を囓るばかり。それでもふたりは、おそらくチャイナであろうこの国の都を目指さなくてはいけないのだ。
 人通りはあるのに意思疎通が出来ない日々を過ごして数日、この日も民家の軒先に座り込んで眠ろうとしていたところだった。
 修道院にいた頃はいつも気丈に振る舞っていたルカが、不安で疲れ切っている。この状況をどうしたらいいのかウィスタリアにはわからず、ただ、ルカの黒い髪を撫でて宥めるばかりだった。
 このまま、この異国で死んでしまうのだろう。新しい土地に慣れるのが得意なウィスタリアでさえそう思ったその時、月の明かりを遮って誰かが立ちはだかった。
「何やってるんだ? お前ら」
 初めて聞くその声、けれども何を言っているのかがわかるその言葉に、ウィスタリアははっと顔を上げる。そこに立っていたのは、勿忘草色の髪を短く纏め、この国独特の服を着た男性だった。
 彼が自分たちにわかる言葉を話した事に気づいたルカも顔を上げ、安心したのか泣き出してしまった。
「えっ? なになに? 俺なんか悪い事した?」
 突然の事に戸惑った様子の彼に、ウィスタリアが事情を説明する。気が動転しているのでうまいこと伝わっているかどうかはわからないけれども、男性は時々首を傾げつつ、頷きながら話を聞いてくれた。
「ん? えっと、お前らはこの国の都に行きたくて? 腹減って眠い?」
「おおむねその通り」
 説明が通じてウィスタリアも安心する。このまま宿を教えて貰えればと思っていたら、男性はこの村の近くに見える山を指さしてこう言った。
「とりあえず、この村に宿は無いから、もう少し動けるんだったら俺の家に泊めても構わない。
ごはんも用意するからさ」
 それを聞いて、ウィスタリアはちらりとルカに視線を送る。すると、ルカはすぐさまに立ち上がってウィスタリアに声を掛ける。
「この方のお世話になりましょう。
もしなにか良からぬ事を考えていたとしても、二対一なら勝てます」
「わかる、わかるよ俺を不審に思うその気持ち。でももうちょっとふんわり言って欲しいなぁ」
「あ、申し訳ありません。つい……不審で……」
「重ねて言うな」
 はじめて会ったこの男性の言うとおりに、お世話になってしまって良いのかという不安はもちろんウィスタリアにもある。けれども、全く言葉が通じない相手よりは通じる相手の方がまだやりようがあるだろうと、彼について行くことにした。

 彼と出会った村からしばらく歩き、山の中にある洞窟のような所にふたりは案内された。
 その洞窟の入り口の回りには、日用品や窯らしきものが置かれていて、確かにここに誰かが住んでいるのだと物語っていた。
 ここの住人である彼が、ランタンに火を点してふたりを中に招き入れる。入ってみるとすぐにテーブルが置かれた部屋があり、奥にもまたふたつほど部屋があるようだった。
 彼はふたりに椅子を勧め、早速部屋の中にあるかまどに火を入れる。
「おまえら、ここ最近どのくらい飯食った?」
 なぜそんな事を訊くのだろう。不思議に思いながらも、ウィスタリアとルカは少なくとも数日は一食につき一切れほどの干し肉と水だけだったと彼に伝える。
 すると彼は、かまどにかけた大きな鍋に水を注ぎ、白いつぶつぶしたものをざぁっと入れた。緊張したまま彼のことを見つめていると、沸騰する音と共に甘い香りが漂ってくる。それでなおのこと緊張したのか、ルカがぎゅうっとウィスタリアの袖を掴んだ。
 鍋に向かう彼は、長いおたまで鍋をかき回しながら語りかけてくる。
「お前達のことを訊く前に、俺のこと話さないと安心できないよな。
俺の名前はコン。この山に住んでる。
たまに都に行ったりしてるから、都に行きたいなら案内はできるぞ」
 身元を明かされて、ウィスタリアとルカは顔を見合わせる。向こうが名乗ったのならこちらも名乗らなくては失礼だろう。返すようにウィスタリアが口を開いた。
「おれの名前はウィスタリア。
西の方から来たんだけど、この国でなんだ、あの、不老不死になる的な物を探しに来たんだ」
「えっ……ウィスタリア、そんなにふんわりとらえてたんですか……?」
 少し驚いた様子を見せたルカが、今度は名乗る。
「私の名はルカと申します。
祖国にいる方から賢者の石に相当するもの、先程ウィスタリアが申しましたように、不老不死を手に入れられるものを探すよう言いつかってチャイナまでやって参りました。
ところでここはチャイナですよね?」
「あー、うん。そうなんだけど、そのノリで良くご無事でって感じだな……」
 目的地がどのあたりかを把握せずにやって来たと言うことに若干呆れているのか、コンが頭を押さえている。
「とりあえず、お前達の目的はわかった」
 目的が通じて安心するふたり。けれども、ここでコンにだけ目的が通じてもこの後の発展はあるのだろうかといささか疑問がある。すると、コンが大きな器に鍋の中のものを注ぎ込みながらこう続けた。
「賢者の石? 的な物の情報は皇帝のところに集まってる。もしその情報が欲しいのであれば、接触を取れるように案内しようか」
 湯気の立ち上る器とスプーンを目の前に置かれたルカが、震える声で言う。
「どうして、あなたはそこまで私たちに良くしてくださるのですか?」
 すると、コンはにっと笑ってこう答える。
「遙々遠方から来たやつを無碍にはできないだろ。お前達は、命をかけてここまで来たんだからさ」
 そう、自分たちは命をかけていたのだ。今までその自覚は薄かったけれども、改めて言葉でそう言われて、ウィスタリアの目から溜まった疲れと一緒に涙が溢れてきた。
「とりあえず、今日はこれ食べてもう寝な」
 目の前に出された食事は、なにやら白っぽいスープだ。食前の祈りをあげてスプーンで口にすると、やさしい甘みと塩味、それに深みのある味が口の中に広がった。
 ふたりは夢中でそのスープを食べた。質素なのに、修道院でも食べたことの無い美味。それを完全に空腹を満たすほど食べたいと思った。
 けれども。
「今夜の分の飯はそれだけな」
 コンはそう言って食べ終わった食器を下げてしまう。食べるのが好きなウィスタリアはもちろん、どんなに質素な食事でも不満を持ったことの無いルカでさえもしょんぼりとしてしまっている。
「どうして、おかわりはダメなんです?」
 諦めきれないウィスタリアがそう訊ねると、コンは真面目な顔をして返す。
「飯をほとんど食べない状態が長く続いた後、いきなり腹一杯飯を食うと、体が追いつかなくて死ぬことがあるんだ」
 それを聞いて、ウィスタリアは身を固める。
「俺は、そうやって死んだ人間を何人も見てきた」
 その言葉を聞いて、本当に、はじめて会うのにこんなに気にかけてくれるなんて、コンはどれほどの聖人なのだろうとウィスタリアは思った。

 

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