第五章 揺れる藤

 翌朝、悠希と蓮田はホテルで目覚めのコーヒーだけを飲み、 朝食は出かけてから食べようと早めにホテルを出た。ホテルを出て電車に乗り、 何処の駅のコインロッカーに荷物を入れるべきか、考える。今日の最初の目的地である亀戸天神は、押上からでも、 錦糸町からでも、亀戸からでも歩いて行ける距離だ。正確に言うと、 何処から行っても距離に余り差が無い。そしてその後の予定だが、夕方に語主と落ち合うことになっているので、 その頃には神保町に着いていたい。そうなると、一旦錦糸町まで出てそこに荷物を預けたほうが、 神保町には出やすいだろう。そこまで考えたところで押上に到着したので、悠希は蓮田を連れて電車を降り、 他の路線に乗り換えた。

 

 錦糸町の駅で荷物をコインロッカーに入れ、 悠希と蓮田はゆっくりと大通りを歩いて行く。右手に大きな公園が見えてから少し歩き、 それから路地に入っていく。路地を暫く進むと、そこには小さな、古ぼけた喫茶店があった。

「蓮田さん、ここで朝ご飯を食べましょう」

「ここで食べるのかい? このお店はなにが美味しいのかな?」

「このお店はホットケーキが美味しいんです」

「ほっとけーき?」

「えっと、甘くて暖かくてふかふかしてるんです」

「そうなのか。楽しみだねぇ」

 案の定、ホットケーキを食べるのも初めてな様なので、悠希は蓮田を連れて店内へと入る。実は、 この店は喫煙が出来るので煙草の煙が気になるかと思ったのだが、 運良く喫煙をして居る客は居なさそうだ。落ち着いた店内の中を案内されて席に着き、 二人はホットケーキとアイスティーを注文した。

 

 注文したホットケーキが運ばれてきて、 蓮田がナイフとフォークの使い方がわかるかどうか一瞬心配になった悠希だったが、 特に問題なく蓮田はナイフとフォークを使いこなしていた。ナイフでホットケーキを切り、フォークで口に運ぶ。

「甘くてふかふかしているね。美味しいねぇ」

 メープルシロップがたっぷりかかったホットケーキを食べる蓮田は、とても幸せそうな顔をしていた。

 

 ホットケーキを食べ終えた後、二人は歩いて亀戸天神まで向かった。駅からだいぶ離れては居るけれども、 今の時期は丁度藤の花が満開で、朱に塗られた太鼓橋と藤のコントラストが鮮やかなのだ。この時期に東京に来るのなら、 是非ここを見て欲しいと言う場所だった。

 眩しい日差しに照らされながら、街中を歩く。蔵前橋通りを暫く歩き、 川にかかった橋を渡る。すると程なくして亀戸天神に辿り着いた。大きな鳥居をくぐり境内に入ると、 混雑はしていたけれども、いたるところにある藤棚からぶら下がっている房が見事に花開き、鮮やかな紫色になっていた。

「これは、藤の花だよね?」

「はい、藤の花です」

「きれいだねぇ。

ゆっくり観ていたいけれど、まずはここの天神さんに挨拶をしないとね」

 蓮田もここでお参りをして良いのか。それを確認出来た悠希は、境内の奥に有る社殿へと向かう。それから、 社殿の前に置かれている賽銭箱に小銭を入れ、礼をする。所謂、二礼二拍手一礼なのだが、 蓮田はどうしているかとちらりと見ると、静かに手を合わせているだけだった。確かに、神が神に対しておこなう挨拶が、 人間が神に対する物と同じなわけが無い。蓮田が顔を上げるまで少し待って、それから藤棚をゆっくり観ようと、 二人は社殿の前から離れた。

 

 社殿から鳥居まで伸びる道の間には、池を跨がる太鼓橋がある。その太鼓橋の斜面は急で、 登るのに一苦労する物だけれども、朱に塗られた太鼓橋の手すり越しに見る藤が一番きれいだと、 悠希は思っている。だから、その景色を蓮田にも見せようと太鼓橋を登った。

「おやおや、最近の橋はこんなに急なのかい?」

「えっと、別段最近の物では無いんですけど、蓮田さんからすれば最近の物かも知れませんね。

たまにこういう急な橋があるところがあるんですよ」

 橋の中央まで登った悠希は、向こうを見て下さい。と蓮田に声を掛ける。そうして蓮田が視線を向けた先には、 目線より若干下にある藤棚と、それを彩る藤の花があった。

「すごいねぇ。藤の木を上から見るなんて、初めてだよ」

「お花は見えますか?」

「ああ、見えるよ。とてもきれいだね。

池に落ちたお花が、宝石のようだよ」

 それから二人で暫く藤を見て、宝石の話もして。お昼時になったけれど余りお腹が空かないと言う事で、 亀戸天神の近くにあるお店でくず餅を食べる事にした。

 

 亀戸天神のすぐ近くにあるその店は、 休日ともなるといつも行列が出来るという人気店だ。今日は平日のせいなのか時間がまだ早いからか、 スムーズに入店することが出来た。

「蓮田さん、くず餅は食べたことありますか?」

「くずもちかい? お餅は食べたことがあるけど、くずもちというのはどういうお餅なんだい?」

 やっぱり知らなかったか。そんな気はしていたけれども、 取り敢えずざっくりとした説明をする。そうしている間にくず餅が運ばれてきて、それを見た蓮田が目を丸くしている。

「黒いのがかかっているけど、これも甘いのかい?」

「はい。この黒い蜜は黒糖を使って作った物なんです」

「そうなんだね。美味しそうだねぇ」

 期待している様子の蓮田と一緒にくず餅を口に運ぶ。きなこの香ばしさが抜けていき、 黒蜜の少しざらついた甘みとくず餅の弾力を噛みしめる。これを食べた蓮田はどうだろうと悠希が見やると、 一口ずつ丁寧に食べて、笑顔を浮かべていた。

 

 くず餅を食べ終わった後、亀戸天神から少し歩き、 小さい三階建ての店まで来た。この店は江戸切り子のグラスなどを製造・販売している所で、 三階部分が店舗になっている。建物の中へ入り、店舗フロアへと行くと、そこには色取り取りの、 煌めくガラスの器が並べられていた。静かな店内なので大声を出すのは不味いと思った様子の蓮田が、小声で悠希に言う。

「ここに有るのは、もしかしてみんな玻璃器なのかい?」

「そうですよ。江戸切り子と言って、透明な玻璃の上に色つきの玻璃を乗せて、それを削ってこういう模様を作るんです」

「そうなんだ。

随分と……随分ときれいな玻璃器だねぇ」

 そう言って蓮田は、美味しい物を食べている時とはまた違う、うっとりとした顔をする。

 広くはない店内を、じっくりと時間をかけて眺めて、蓮田が背の低いグラスを指さして言った。

「これの緑と赤が揃いで欲しいな」

「そうですか? それじゃあ店員さんに包んで貰いましょう」

 なかなかに高額なグラスだけれども、 ふたつも買ってしまうなんて。その事に驚きながらも悠希は店員を呼ぶ。店員は手際よくグラスをカウンターへ持っていき、 梱包する。それから、会計をした後に蓮田に手渡した。

 

 江戸切り子のグラスを買って店を出た後、悠希は少し気になったことを蓮田に訊ねた。

「そういえば、両方とも贈り物用の包みじゃ無いですけど、どっちも自宅で使うんですか?」

 その問いに、蓮田は照れた様子で答える。「片方は贈ろうかと思うのだけれど、 どちらが良いか選んで欲しいからね。それだと、贈り物用の包みにする必要は無いだろう?」

「ああ、なるほど。そういうことなんですね」

 そう納得したところで、二人は錦糸町に向かって歩いて行く。語主との待ち合わせ時間までまだだいぶあるけれど、 悠希が立てた予定では、 この後は神保町の古書店巡りだ。蓮田からすれば古書店に置いてある本はみな最近の物なのだろうけれども、 蓮田もたまに通販で本を買って読んだりもしているようなので、古書店や本屋は見ていてつまらない物でも無いだろう。

 御茶ノ水経由で神保町に行く予定なのだが、大きな荷物を持って御茶ノ水駅を乗り越えられるかだけが心配だけれども、 何とかなるだろう。

 

†next?†