水族館を出ると、もう夕暮れ時だった。荷物もあるし、今日の観光はこの辺にして宿泊先へ向かおうと言う話になった。
語主から事前に聞いていた宿は悠希が住んでいるアパートの最寄り駅から一駅ほどの距離に有るけれども、 世間知らずな蓮田を一人で泊めるのは不安だと言う事で、悠希も一緒に泊まることになっている。夕食は、 宿で出される物では無くて、他の店で食べる様に予約したらしい。
押上駅の改札で、語主が悠希と蓮田に言う。
「それでは新橋先生、今晩は蓮田のことをよろしくお願いします」
「はい。お任せ下さい」
悠希がそう返事をすると、蓮田が語主の袖を引っ張ってこう言った。
「語主は、もう帰ってしまうのかい?」
少し寂しそうな顔をする蓮田を見て、悠希は語主にこう提案した。
「今夜の食事は宿で出る物では無いですし、もしご都合がよろしければ、語主さんもご一緒しませんか?」
すると、語主はちらりと蓮田を見て、こう答える。
「そうですね、終電までに帰れれば大丈夫なので、ご一緒させていただきます」
それを聞いて、蓮田は嬉しそうだ。悠希も語主と一緒に食事をするのは初めてなので、 多少緊張はあるけれども、同じテーブルを囲むのがなんとなく楽しみだった。
押上から下り線に乗り、一行は青砥に到着した。まずは宿にチェックインすると言う事で、 三人は駅からほど近いホテルに向かう。ホテルに着いてから、悠希が宿泊の手続きをして、 蓮田と一緒に部屋に荷物を置きに行く。その間、宿泊客でない語主はロビーで待っていた。
部屋に荷物を置き、悠希達は再び電車に乗り、 柴又にある料亭へと向かった。その店は鯉料理を出してくれると言う話を前から聞いてはいたけれども、 一体どんな物なのか、今まで食べたことは無かった。
途中電車を乗り換え柴又に着き、店へと向かう。参道沿いにある店に入り、 店員に案内され、テーブルに着く。それから、お品書きを開いてどれにするか、三人で話す。
「みなさん、どれにしますか?」
「うーん、俺は天丼にしますかね。
蓮田はどうする?」
「えっと、鯉こくはお味噌で煮た物だとわかるけれども、鯉のあらいってなんだい?」
「鯉のあらいは、生の鯉の身を軽くお湯で洗った物です」
どうやら蓮田は鯉に興味があるようで、鯉こく、鯉の洗い、 ご飯の三点を注文するようだ。語主も天丼に決めたようだし、悠希は、 どうするかと少し悩む。何度もお品書きを見返して、自分が食べるペースが遅いと言う事を考慮し、 鯉こくとご飯を頼むことにした。
注文してから暫く経ち、テーブルの上には鯉こくがふたつと鯉の洗いがひと皿、 天丼がひとつ並んでいた。三人でいただきますをして食べ始めたのだが、真っ先に鯉のあらいを食べた蓮田が、 にこにこして悠希と語主に声を掛ける。
「悠希君、語主、これ美味しいよ。一切れ食べてみないかい?」
「良いんですか? それじゃあいただきますね」
「おう、一切れ貰うわ」
蓮田が余りにも美味しそうにしているので、 普段小食な悠希でもついつい言葉に甘えたくなってしまう。箸で一切れつまみ、 酢味噌を少々拝借して口に含む。すると、少し甘い味噌の味と爽やかな酢の香り、 それに白身魚特有の淡泊な味が口の中に広がった。
「おおお、鯉って泥臭くなりがちなのに、これは美味いな」
ここまで美味しい物だと思っていなかったのか、 語主も口を手で隠しながら感想を言っている。ほぼ生の身でこれだけ臭みが無いのなら、 きっと鯉こくも美味しいのだろう。そんな期待を持って、悠希はそっと鯉こくの器に口を付けた。
夕食を食べ終わり、悠希と蓮田は語り主と別れ、ホテルへと戻った。部屋に戻るなり、 今日の疲れを落とそうと二人は大浴場へと向かう。脱衣所で服を脱ぎ、浴場に入ると蓮田はぽかんとして悠希の手を握る。
「悠希君、ここの湯殿は、銭湯みたいに広いのだね」
「そうですね、沢山の人がここで体を洗ったり、お湯に浸かったりしますから」
どうやら大きい浴場には慣れていないようで、きょろきょろと周りを見渡している。そんな蓮田を誘導し、 まずは体を洗おうと、水道とシャワーの前に椅子を持って来て座る。
「蓮田さん、使い方はわかりますか?」
「えっと、この出っ張った所を押すと、お湯が出るのだよね?」
そう言った蓮田が蛇口とシャワーホースの根元にある出っ張りを押すと、勢いよくシャワーからお湯が降ってきた。
「わぁぁぁ……なんで上から出て来たんだい? これを押すとこっちの下の方から出るんじゃないのかい?」
突然の事に驚く蓮田に、悠希は水道周りを指さしながら説明をする。
「あ、これは横に回す部分が有るんですけど、そこで上から出すか下から出すか選ぶんです」
言われるままに、蓮田はスイッチの切り替えをし、もう一度出っ張りを押す。すると、 今度こそ蛇口からお湯が出て来た。
「なるほど、こういう仕組みになっているんだね。悠希君、ありがとう」
「いえいえ。取り敢えず、体洗いましょうか」
水道の使い方がわかったのは良い物の、その後シャンプーとボディシャンプーの解説もすることにはなったが、 なんとか体を洗い終え、浴槽に浸かることが出来た。
入浴を済ませた二人は、 自動販売機で冷たい飲み物を買って部屋へと戻った。部屋は取り立てて広いというわけでは無かったけれども、 ベッドに腰掛けてたわいのない話をするには十分だった。
「今日は一日お疲れ様でした」
「お疲れ様。悠希君、明日もよろしくね」
「はい。でも、明日は案内するのが僕だけですけど、大丈夫ですか?」
今言ったように、翌日の案内は悠希だけだ。今日一日を見ていた限りでは、 蓮田は語主とかなり仲が良さそうな様子だったので、語主が居なくて寂しくないか、悠希は少し不安になる。
悠希の問いに、蓮田はにこりと笑って答える。
「勿論、悠希君だけで大丈夫だよ。
語主も仕事が忙しいようだし、あまり無理は言えないしね」
「そうですね、お仕事があると、無理は言えませんよね」
「それに、明日の晩は語主の所に泊めて貰う事になっているし、寂しくは無いよ」
既に翌日の観光に思いを馳せているのか、蓮田はにこにこしたまま、 先程買った缶ジュースを両手で撫でている。それを見て、悠希ははたと思い当たる。
「あれ? もしかして蓮田さん、缶ジュースの開け方わからないですか?」
「これはかんじゅーすと言うのかい? 中に水が入っているようだけれど」
案の定知らなかった。悠希が自分の分の缶ジュースを開けるところを蓮田に見せ、蓮田にも開けて貰う。それから、 開いたところに口を付け、二人でジュースを飲む。すると、蓮田が驚いたような顔をして缶から口を離して言った。
「んんん、これは一体なんなんだい? 口の中がちくちくするよ」
「そう言えば蓮田さん、よく見ると炭酸飲料買ってますね」
買い方だけ教えて適当に選ばせるというのは失敗だったか。悠希はそう思ったが、蓮田はまた缶に口を付けて一口飲む。
「ちくちくするけれど、甘くて美味しいね」
一口ずつ、少しずつ飲む蓮田に合わせて、悠希も缶ジュースを少しずつ飲む。
ふと、蓮田がぽつりと言った。
「今日は、初めてのことばかりでとても楽しかったよ」
それを聞いて、悠希も微笑む。
「そうですか。楽しんでいただけて良かったです」
ジュースを飲みながら取り留めなく今日の話をして、夜も更けてきて。二人はジュースを飲み終わってから、 電気を消してベッドに潜り込んだ。
暗闇の中、微かに蓮田の声が聞こえた。
「明日も、楽しみだねぇ」
それから、余程疲れていたのかすぐに寝息が聞こえてきたので、悠希もそっと目を閉じた。