第四章 医者の助言

 教会からなんとか練習場に戻ってきたドラゴミールは、心配そうに駆け寄ってきたウィスタリアに声を掛けられた。

「どうしたんだよ、そんな真っ青な顔して。

もしかして司教様を怒らせちゃったとか?」

 身を屈めて目を合わせるウィスタリアに、ドラゴミールは掠れた声で答える。

「俺、去勢されてるかも知れなくて、それで……」

 今にも泣き出しそうな顔をして、身体を震わせるドラゴミールのことを、ウィスタリアがしっかと抱きしめる。

「うん、そっか。

でも、そう言う手術受けた覚えはある?」

「無い……だから、お医者様に診てもらった方が良いって言われて」

 しかしそうは言った物の、そういったことを診てくれる医者はどこに居るのか。 修道院から殆ど外へ出ることの無いマルコから聞くことは出来なかったし、 ドラゴミールも心当たりが無い。どうしたら良いのかわからなくなって、心細くなって、 ついには泣き出してしまう。腕の中で泣いているドラゴミールに、どんな言葉をかければ良いのか、 ウィスタリアも迷っているようだった。

 鼻を啜ってしがみついているドラゴミールの頭を優しく撫でて、ウィスタリアが何か思いついたような顔をした。

「あのさ、アヴェントゥリーナ様の知り合いに医者が居るみたいなんだけど、その人に診てもらう?」

「……アヴェントゥリーナ様の、知り合い?」

 ウィスタリアが言うには、貴族を診ているような医者の方が、 庶民を相手にしている町医者よりも学識があるだろうとのことだった。

 取り敢えず診てもらわないと何とも言えない。そうウィスタリアに宥められて、 ドラゴミールもようやく練習が出来る状態になった。

 

 その日の晩、公演が終わった後、ドラゴミールは自分の部屋にシルヴィオを呼んでワインを飲んでいた。

「お前がそんなに飲むなんて珍しいな。

まぁ、突然あんなことを言われれば動揺もするだろうが」

 浮かない顔で黙々とグラスにワインを注いでは空けるドラゴミールの様子をシルヴィオはぢっと見ている。

 普段、練習や仕事に響くと困るからと、酔いつぶれるまで飲むことが無いドラゴミールが、 こんなに杯を空けるというのは、よほどショックだったのだろう。

「ドラゴミール」

「なに?」

「医者に行くのが不安か?」

 酒が回って火照ったドラゴミールの頬に手を添え、シルヴィオがそう問いかけると、 ドラゴミールはグラスを置いて顔にかけられた手に、自分の手のひらを重ねる。

「不安だし、すごく怖い。

本当に去勢されてたら、俺、もう神様の所に行けないじゃん」

 きっと舞台に立っている間も不安だったのだろう。しゃくり上げてぽろぽろと涙を零し始めた。 シルヴィオが頬に手を当てたまま、親指でそっと涙を拭う。

「医者に行くとき、付いていこうか?」

 あやすように言われたその言葉に、ドラゴミールは何度も頷いた。

 

 それから数日後、ドラゴミールはアヴェントゥリーナの紹介で、とある医者の元を訪れた。その医者は、 よく体調を崩すというデュークのことをよく診ている医者であり、デュークの友人でもある人物だった。

 シルヴィオと共にその医者の元を訪れたドラゴミールは、緊張した面持ちで診察室の椅子に座って居る。

「事情はアヴェントゥリーナ様から伺っております。あなたが去勢されているかどうか、その事を聞きたいのですよね?」

「えっと、そうです」

 今日ばかりは、自分の高い声が恨めしく思えた。きっとこの医者は、 自分が去勢されているとそう告げるだろう。ドラゴミールはそう思って、医者の言葉を待った。

 すると医者はこう言った。

「失礼ですが、上着を脱ぐ、と言うか、肌着になっていただけますか?」

「え? あ、はい」

 声だけで決めつけずにちゃんと診てくれるのか。そう思ったら少しだけ安心した。

 室内には男しか居ない。だから、服を脱ぐことを躊躇う必要は無いので、 ドラゴミールは側に有るベッドに服を積み上げなから肌着姿になった。

 その姿を、医者はぢっと見つめている。

「少々触らせていただきます」

 そう断りを入れてから、医者は立ち上がって、ドラゴミールの肩、首周りと喉、胸を少し押しながら触れている。それから、 難しそうな顔をしてこう言った。

「ううむ……去勢された場合の身体的特徴は、特に出ていないようですね」

「そうなんですか?」

 去勢されていないかも知れない。そう思ったドラゴミールの表情が明るくなる。その笑顔をシルヴィオに向けると、 シルヴィオは不思議そうな顔をして医者にこう訊ねた。

「お医者様、もし宜しければ、去勢された場合はどの様な特徴が出るのか、お聞かせ願えますか」

 その問いに医者はこう答えた。

 他国で行われている男児の去勢手術は、主に声変わりをする前、特に幼児期に行われることが多い。その場合、 成人しても男性的な身体的特徴が出づらく、肩と首は丸みを帯び、 胸が女性のように発達することがあるのだという。それに加えて、と医者はこう言った。

「彼はカストラートにしては身長が低すぎます。去勢された男性は長身になる傾向があり、そうですね、 私よりも背が高い者が大多数です」

 そう言った医者のことを、ドラゴミールが見上げる。この医者もウィスタリアと同じように、 ドラゴミールよりも頭一個分ほど背が高かった。

「それじゃあ、俺、去勢されて無いんですか?」

 ドラゴミールが嬉しそうに医者に訊くと、医者はやはり、困ったような顔をしている。

「されていないとは思いますが、ひとつだけ気になる点があります」

「気になる点?」

 一体何だろうと思っていると、医者が喉を指して言葉を続けた。

「喉仏が見当たらないんです」

 そう言われて、自分の喉を撫でてみると、確かに出っ張りが無く、指を滑らかに上下させられた。

「なので、そうですね。もう少し詳しい検査をしたいと思います。

出来ればお連れの方には席を外していただきたいのですが」

 一体どんな検査をするのだろう。それは疑問だったけれども、ドラゴミールもシルヴィオも、 大人しく医者の指示に従った。

 

 シルヴィオが診察室の前で待っていること暫く、意気揚々とドラゴミールが扉を開けた。

「おや、その様子だと良い結果が出たみたいだな」

「おうよ。やっぱ去勢されて無かったって。

声が高いのは、声変わりがとんでもなく遅いだけかもって言われた」

「そうか、良かったな」

 嬉しそうな顔で持っている封書は、診断書だろう。それを教会に持ってくのか、 それとも記念に書いて貰っただけなのかはシルヴィオにはわからないけれど、診察を受ける前とは打って変わって、 今まで通りに明るく、人懐っこい笑みを浮かべるドラゴミールの頭をそっと撫でた。

「そう言えば、どんな検査をしたんだ?」

「えっ? あっ、えっと」

 シルヴィオの問いに、何故かドラゴミールは顔を真っ赤にしている。

「だめだめだめ! 言えない! 恥ずかしい!」

「あ、ああ、そうか」

 一体どんなことをしたのかシルヴィオにはわからなかったけれども、余りいつまでもお邪魔しているのも悪いだろうと、 二人はメイドに案内して貰って医者の元を後にした。

 

 医者に診てもらった後、この件について心配をかけてしまったアヴェントゥリーナにも結果を報告した方が良いだろうと、 ドラゴミール達は屋敷へとお邪魔した。

 案内されたティールームで良い知らせを告げると、心配した様子だったアヴェントゥリーナも、 デュークもほっとしたようだった。

 医者を紹介してくれたお礼になにか。とドラゴミールが言うと、アヴェントゥリーナは微笑んでこう答えた。

「それじゃあ、一曲歌ってくれるかしら」

 その要望に応え、ドラゴミールは不安など無い、煌めく歌声を披露した。

 

†next?†